冬の一角獣

真城六月ブログ

現在のマテリアル

 

 

かなり滅茶苦茶に。だいぶ勝手に。さらに無頓着に。自由にひっくり返して。わたしと私よ行け。

 

 

わたしは昔、身体から出たいと思った事があったし、それを言葉にしたりもした。今はそうは思っていない。身体を持って、身体の中にいてしか叶わない事、味わえない事はあり、良い事もそうでない事もまだ残っていると思う。人は変わるものだ。

 

 

 

わたしはまだ陽射しを浴びたいし、猫に噛まれたい。欲張りな事。いつか必ず終わる。行き先は同じ。過程のみそれぞれ異なる。子供の頃から考えていた。終えた時にまた引き戻される事も今回で終えられるように。使う。自分を。自分で感じることだけに従って行けるとこまで行き、くたばるのだ。

 

 

誰もいない。

 


たぶんわたしも他の人も自分の中の被害者意識や保身や疑心暗鬼や依存心とこそ闘わないとならない。敵は外には、他には存在しない。全て膿を出す良い機会が到来している気がする。個人的にも子供の頃から違和感を覚えてきたこの世の在りよう、様々な機能や仕組みを目を逸らさずに見る時だとも感じている。

 

 


私があるものを盲信しているとしてそれは何故か。何故それを盲信してしまったか。それの本質は何か。他者の意見や感想はノイズになることも多い。特に求めないアドバイスは呪いにしかならない。事実を確認する。近現代の歴史を見直す。感情的に判断しない。選択肢は提示されたものより多い事がほとんど。絶対に誰かや何かのせいにしたりしない。

 

 

 

そう。誰もいない。味方も敵も自分です。神も鬼も。教典も自分です。

 

 

 

それで、私は世界からテレビが無くなったならと夢想しています。思い出の歌番組は懐かしいし、好きな人が映る時に観られないと辛いし。だけど無い方が良いです。テレビは人々をすっかり変えてしまいました。70年テレビを観続けた親や子や孫が作っているのが現在の世間です。

 

 

 

人々が自分を生きられなくなってしまった。テレビと学校教育の果たした役割は大きい。テレビが好きで学校で問題の無かった子が大人になって上手くいくのがこの世だとしたら何か惜しくないですか。私達は知らぬ間にゴミを詰め込まれ、変なもの、不要な観念ばかり見せられ、おかしくなってしまった。ゴミ出しは心身共に骨が折れますが、換気をしてからやっと自分を取り戻せるという事もあります。

 

 

 

大切な知識や思い出の数々をゴミだったかもと認めて、捨てるのは難しい。人によっては壊れるかもしれない。誰もが自分の信じている、信じてきたものをこれからも信じていたいのだろう。騙されているよと忠告されても貢いできた結婚詐欺師を信じたいという人の気持ちもなんとなく分かる。人の世はカオス。愚かしく甘く苦い。それをそのまま面白がれるか。

 

 

 

友人は言いました。「皆が好きなのはテレビ。テレビに出ていないものはテレビに出ていないから信用されない。テレビは世界一の宗教だから」と。私もそう思っていたので、素直に頷きました。テレビって本当に凄いです。凄いといえばテレビです。テレビと義務教育は人の人生を細部に至るまで操縦しているのですね。

 

 

 

誰もいない。

 

だから納得しかない。この人になら騙されていたとしても良いとか。こっちに賭けてみたい、それで敗けても仕方無いとか。ギャンブルを白眼視する人は多いけれど、人生は賭けの連続だ。勝つか敗けるか分からない。誰も責任取らない。自分の納得しか解決策は無い。他人は関係無い。自分がしたいからするんだ。

 

 

 

スピリチュアリティ(便利なレッテルが溢れかえる世の中ですね)と結びつける前に生まれつきトンデモな私には私だけの確信が折に触れてあり、でもそれは私だけのものにしていようと思っています。野生動物の群れには危機に敏感な個体が何頭かいて多数が気付く前に群れに危険を報せます。私は火事にいち早く気づき、眠っている人々を起こしたり、大きな地震が起きた際は遠く離れた場所に着いた直後でした。

 

 


わたしはMBTIでINFJです。二年ほど前までINFPと出ていたのですが、それは自分のことをしっかりと捉えていなかったので現在とは違う結果になっていたと思います。瞑想をするようになって、自分の中のゴミ出しがかなり進み、それでやっと見えてきたものも増えたという感じです。

 

 

西洋占星術ホロスコープでは私の太陽は9ハウスにあります。最近ホロスコープを見ては腑に落ちることが多いのです。

 


めまぐるしいですね。

 

 

 

続けることが難しいと聞くけれど、わたしは続けることしか出来ない。ずっと詩を書いている。誰もいない。わたしはわたしをやる。


またね。