冬の一角獣

真城六月ブログ

人間を見たい

 

 

インターネットを眺めていて、ぼんやりと思った事を脈絡無く書き留めておきます。

 

 

人はほんとうは何を見たいのか。人間は人間を見たいのではないか。

 

 

わたしが「人間は人間を見たいのだ」というときの意味は以下のような感じです。

 

 

人間はポーズをする人間に関心を持ち難い。ほとんどの人間はヤラセに辟易している。他の演技に敏感な人は多く、演技する他に敏感であればあるほど好感を抱けない。もし、好感を抱いたとしても大抵その好感は弱いものであり、持続しない。だから、人間は人間のほんとうを見たいのだ。

 

 

だけれども、すぐに矛盾に行き当たります。わたしたちの社会はポーズありきのものだからです。可笑しくもない話をしながら愛想笑いをし、昨夜フラれたのに何事も無かったかのようにネクタイを締め、髪を巻いて出かけなければなりません。もし、そう出来なければどうなるか皆、知っているのです。どうなるというのでしょう。もしかして、どうもならないのではないでしょうか。誰もが求められる在り方を先回りして、上手に演じ続けます。自分だけそうしない訳にはいかないのだと感じるには十分な圧力を皆、子供の頃から受けています。

 

 

自由という言葉の意味。多様性という言葉の意味。個性という言葉の、自分らしくという啓蒙の、ありのままでという概念の空疎さに耐えながら、今から明日から社会のコミュニティの関係性の中でやっていくという事はとても困難であるはずなのに、疑問を呈する事は控え、弱音を吐く事も無く、続けていく。途方も無いなと思わないではいられません。

 

 

嘘も演技も沈黙もその人間。人間のあるがままは清らかさとイコールでは全くあり得ない。欲望や葛藤や過ちと関係の無い人はいない。一人も。わたしも自分の愚かさを通じて誰も傷つけないでいる事は出来ないと知っていて生きています。行う事と同じだけ、行わない事も他に影響します。今、この時にもたぶんそうです。存在するすべてのものは生きている限り影響し合う。

 

 

誰でも疲れ果てて、不意に洩らしたネガティヴな言動を更に否定されたり、笑われたり、揚げ足を取られたり、的外れなアドバイスを受けたりして余計打ちひしがれたい訳は無いのだから、何でもないポーズをします。そして何でもないポーズが上手ければ上手いほど、お互い賞賛しあったりする。お互いの首を絞めあって、逃げ道を塞いでしまう事を進んでしたりする。自分の誇りが自分自身を鼓舞する事はあるけれど、他に在り方を強いる為に誇りという言葉を持ち出した瞬間、誇りという言葉は枯れて萎れるように感じられます。

 

 

誰にも見られていなくても、どう動けば良いか知っていて、慣習に操られていて、それが身に染み付いているのです。言外にも教えられ続けて来たポーズを取る事に忠実で、それ以外の事は出来なくなってしまっているようなとらわれ方で。不自由が自由に取って代わり、どちらがどちらか誰にも判断がつかなくなってしまったら。本当は思い込まされているだけなのだろうけれど。それがほとんどのはずなのに。

 

 

選択肢が見えなくなっていて、無数にある選択肢は透明化していて、常に似たような結論を選び取ってしまう。自分の癖に気づけたら、それまで透明だった選択肢が現れ始める。思い込まされていたものに気づくと、呪いが解けるように自分の小部屋の鍵が開く。

 

 


人間は人間を見たい。人間は人間でありたい。わたしはわたしである。わたしは、あなたであるあなたを見たい。自分が自由である為に。そして、自分が自由である事であなたを自由にしたい。わたしとあなた以外の誰もがそうであってほしい。それに今、わたしとあなたが自由であると、わたしはこれまでの自分の不自由をただの不幸と感じない。不自由や制限にあってさえ、得られたものはある。これは事実で、強がりではない。負け惜しみでもない。

 

 

かなしみをかなしむ事。よろこびをよろこぶ事。情動が奔流のように自分を駆け巡り、外へ溢れる事。生きているという事。自分以外の存在の生きている事を感じ取れる事。

 

遮るものの無い事。

 

人間を見る。