冬の一角獣

真城六月ブログ

すべての環

 

 

少しずつ日が暮れるのがはやくなっていきます。夕方と明け方が毎日昨日と違います。

 

 

これから台風がいくつか行き過ぎ、涼しい朝と夜になっていくのでしょう。

 

 

人の世、人々の間で何が起こっていても季節は移っていきます。良いも悪いもなく自然の中で、自然の一部として営み続けるしかありません。それでいて、既に誰もが自然そのままではあり得ないので、いちいち矛盾に突き当たりながら生きます。すべての生きものにそれぞれ色々な理不尽や不条理があります。けれどもやはり、どんな生きものも恩恵を受けていると思います。望んでも望まなくても。

 


元気のかたまりできていた愛猫のちょっとした不調と、療養中の家族の通院にあたふたしていた猛暑日の真昼間、寝不足の眼に痛いような陽射しを浴びながらおひさまを見上げました。その時、短い真夏に太陽が惜しみなくありったけすべてを照らし、暖めようとしていることに気づきました。加減を知らないところが少しばかり有り難迷惑な訳ですが、それはまるで、いずれ来る冬の痛みも今ここですべて癒してしまえとばかり叫ぶような愛情表現で、蝉の鳴き声と相まって、夏の凄絶を感じました。

 

 


思いつくまま書くと、何が言いたいのか分からない伝わり辛いものになります。毎日が暑く、乗り越えるのにエネルギーが必要な事があり、冷静でいたいと願い、すべて夢と思い、素通り出来ない世の中の変容を感じ。そういう日々にあって、明快に思いを表すというのはほとんど無理です。ほんとうに自分が感じるところを書くしかありません。行き着くところは昔から同じで、ユーモアを失ってはいけないという事と愛情無くして癒せるものは無いという事です。自分にも他にも愛しか意味があるものはありません。

 

 

 


十代の頃、詩のノートにこんな事を書きました。


ひとつひとつが小さな輪だね
そしてその輪はそれぞれ
ぜんぶさびしそうで
かっこいいわ

 

 

 


これからお盆をお過ごしの方もいらっしゃるかと思います。故郷や逢いたい方のお墓などに行けない、帰れない方もいると思います。わたしもそうです。わたしはこう考えています。彼方には距離は関係無く、距離を問題にするのは此方のわたしだと。在るもの、在ったものが見えなくなると、それまでより近くに在るようになると感じています。近くに在るというより、外側では無く、わたしの内側に在るようになるという風に。

 

 


猫は元気になりました。療養中の家族も落ち着きました。わたしは消したテレビの前でバレエを踊っています。

 

 


さっきまでの自分を笑い飛ばせたら良いな。嘆く自分もしあわせな自分も。いまの為に。

 

 


またね。