冬の一角獣

真城六月ブログ

15分のエスケープ或いは旅路

 

 

スニーカーが足を突っ込まれ。ドアノブが手に掴まれて。

 

外は涼しいです。いえ、少しまだ暑いです。

 

街路を行く自転車の運転手の髪が艶々できれいです。白いマスクが目立つ夜です。

 

ここは何処です。わたしは解放感から歌い出しそうに道を渡ります。新しい道はでこぼこしていない。滑走路のようです。人が飛べない生きものなのは残念ですか。良いことですか。想像の翼。肩甲骨。ああ陳腐です。風がくすぐったいです。小走りしましょうか。

 

 

車が行きます。車と車と車が沢山。帰るのか出かけるのかどちらでもないのか。ライトが眩しいです。現在はいつです。歩道を歩いていると傍を走り抜けて行く車がセロニアス・モンクの『煙が目にしみる』を奏でるようです。何故これがフィクションでないと言えるか。この全てを観ているものが何処かに在るということを思います。壮大です。そして小さくて狭い。子供の手のひらに収まるほどの。

 

 

街といえるほどの灯でもないけれど。ケーキ屋さん。もうクリスマスツリーを飾っています。季節外れの情緒です。かなしいです。あたたかいです。あたたかいとかなしいですね。もれなく胸が迫ります。九月におせちの心配をする祖母を不思議に思いながら真冬に西瓜を欲しがったわたしです。時代遅れな回想です。そんなことよりいま着ているわたしのカーディガンが格好良いです。また道を渡ります。星も月も無い夜は街灯と信号機の灯が美味しそうです。

 

 


着きました。買いにきたものは無く、微妙に違うものを買うか迷い、止しました。店内を歩き回ります。棚から棚へ。わたしは商店内を見ながら歩くとき、アレン・ギンズバーグを思います。彼の詩に書かれたウォルト・ホイットマンを思います。そして頭の中で呟きます。Are you my Angel?と。十代からずっとこの詩を絶唱かよと思っています。うん。間違いなく絶唱です。わたしたちだって、本当はすべて一言一言が絶唱である。そうでしょう?こんなことを思いつつ、店内を泳ぎ終え外へ出ます。

 

 

帰り路です。なかなかのスイマーであるわたしはまだ少し濡れています。来た道を戻ることをいつも不思議に思います。片道切符という言葉と水晶という言葉は同じくらい透明です。よくよく見れば空は紫色であり、灰色であり、青色であり、橙色であり、草木の緑や土の匂いや家々から洩れる生活の香りなど、その全部が毒で薬です。そうして染み込んでくるのです。痛みもよろこびも。だから突然果てしない気持ちにもなるし、訳もなく嬉しくもなります。わたしはスイマーからダンサーに変身しました。綱渡りの曲芸も出来ます。自動販売機の光。駐車場の白線。舞台に気づけばいつもつま先立ちです。あなたも曲芸師。あなたは賭博師。みんな主演です。

 

 

 

人は変われないのでしょうか。いいえ人は変われます。変わりたいとか、変わらないでいたいとか、変わらずいておくれとか、変わるのが人とか、変わらないのがあなたとか、そんなのどれも違います。だって良くなってしまう。わたしが思えば。良くなるとはどういうことかって?あなたの主演はあなたでしょう。良くないときでさえ、わたしたちは良いのではないでしょうか。良くないときでさえ、良いということを何故分からなくなってしまうかな。

 


戻って来た家は、外から見る家は見知らぬ巣のようで、飽き果てて懐かしい基地のようで、全然いつも通りのただの家です。思い切ってドアを開けます。シーンが切り替わり、続きます。

 

 

ただいま。ようこそ。新しいすべて。