冬の一角獣

真城六月ブログ

ぼんやりのこと

ぼんやりとしていますか?

突然妙なことを言うようですが、ぼんやりとするのって良いですよね。皆さんはぼんやりとしていらっしゃるのでしょうか。

私は「ぼんやり」の道に入ってから、かれこれ二十年以上になります。ぼんやり上級者と名乗ることもそろそろ許されましょう。自分のものにした「ぼんやり」が溺れそうになるときにも息継ぎになり、危ういながらも日々を泳ぎ続けさせてくれています。

でも最近は人間がぼんやりとし難くなっているのではないかと勝手に思ったりしています。ぼんやりって結構難しいと思うんです。だって、ぼんやりとするには他に何もしてはいけないのですから。

皆、いつも何かをしています。スマートフォンを操作したり、鏡で自分の顔を調べたり、落花生の殻をむいたり。仕事以外の時間にもいつも何かしているのです。それでは「ぼんやり」に没頭し難いと思うのです。

お手玉しながらぼんやりするのも、たい焼きを食べながらぼんやりするのも愉しいですが、ほんとの「ぼんやり」は「ぼんやり」の他に何もしないことではないかと思います。

「ぼんやり」をエンジョイしたい私は、何かをしながらの「ぼんやり」の他に、ほんとに何もしない「ぼんやり」の時間も持っています。時間は短くて良いのです。「ぼんやり」は質が大事です。

何か具体的な事を悩んだり、考えたり、論理的に物事を組み立てようとしたりするのも「ぼんやり」ではありません。

「ぼんやり」は、ぼんやりとなんでもなく思うことに内側から取り巻かれることではないかと思います。

形の無い、薄っすらとした、幽かな、朧で容易には掴めない思念に自分を任せることのように思います。そのうち、すっかり裏返されて今度は自分の存在の影が薄くなるのを感じます。

その時の捉えどころの無い、言い現わし難い気分!この気分は一人きりでないと味わえない種類の換えのきかないもので、なんだかとっても豊かなものです。得体の知れない来るか来ないか分からないなにかを待っているようなそんな面白さも伴います。


色々な本を読んでいて、あっ!これは「ぼんやり」のことだ!などと勝手に嬉しくなったりすることもあります。私の好きな「ぼんやり」が書かれている文章を以下に三つ引きたいと思います。






 何をする気にもならない自分はよくぼんやり鏡や薔薇の描いてある陶器の水差しに見入っていた。心の休み場所ーーとは感じないまでも何か心の休まっている瞬間をそこに見出すことがあった。以前自分はよく野原などでこんな気持を経験したことがある。それは極くほのかな気持ではあったが、風に吹かれている草などを見つめているうちに、何時か自分の裡にも丁度その草の葉のように吹かれているもののあるのを感じる。それは定かなものではなかった。かすかな気配ではあったが、然し不思議にも秋風に吹かれてさわさわ揺れている草自身の感覚というようなものを感じるのであった。酔わされたような気持で、そのあとはいつも心が清すがしいものに変わっていた。
 鏡や水差しに対している自分は自然そんな経験を思い出した。あんな風に気持が転換出来るといいなど思って熱心になることもあった。然しそんなことを思う思わないに拘らず自分はよくそんなものに見入ってぼんやりしていた。


梶井基次郎『泥濘』より。






 家へ帰って炉ばたに坐り、長いあいだ火を見つめているうちに、わたしは幻覚を起こしはじめた。わたしが文鎮に使っている、振ると雪あらしが起きてなかにある小さな城を覆ってしまうガラス球のようなガラスのベルの内側に立っているように思えた。








「人間に生まれることばかりが、必ずしも幸福ではない」と、草ひばりについてそんなことをある詩人が言った。「今度生まれ変わる時にはこんな虫になるのもいい」ある時、彼はそれと同じようなことを考えながらその虫を見ているうちに、ふと、シルクハットの上へ薄羽蜉蝣のとまっている小さな世界の場面を空想した。あの透明な大きなつばさを背負うた青い小娘の息のようにふわふわした小さな虫が、漆黒なぴかぴかした多少怪奇な形をそなえた帽子の真角なかどの上へ、頼りなげにしかしはっきりととまって、その角の表面をそれの線に沿うてのろのろとはって行く……。それを明るい電灯が黙って上から照していた……。彼は突然、彼の目を上げて光をのぞいた。それは電灯ではない。ランプの光である。彼はそのランプの光を自分の空想と混同して、自分も今電灯の下にいるように思ったからである。


佐藤春夫『田園の憂鬱』より。






人間、真面目にやっていれば何もすることが無い時なんてある訳がない!といつかどこかで誰だったかに教わったことがありました。ぼんやりとしている時に怪訝な顔をされたことも数知れません。あなた、何してるの?何か考え事?いつもうわの空ね。だいたいこんな感じで叱られたり不気味がられたりするというのが「ぼんやり」のリスクだと思われます。何度も言われれば学ぶもので「ぼんやり」は一人でいる時だけにしておこうと心に決めて、今では誰かと一緒にいる時には「ぼんやり」としなくなりました。忙しい日々にあっては、なかなか一人きり何もしないで「ぼんやり」とすることも難しかったりしますが、そんな日々が続いたあとには必ず、なにか物忘れをしているような、どこか満たされないようなさみしい気持ちになるので不思議なものです。一人になれないからさみしいとは!でも本当のことです。

つかみどころの無い「ぼんやり」について書きましたが、この文章自体「ぼんやり」してしまっているようです。一体なんなのでしょう。「ぼんやり」は変な変な愛しいものです。

これからもなくてはならない「ぼんやり」と仲良く暮らしていきます。

残り少ない二月の日とやがて訪れる三月には…そうだな。やかんでお湯を沸かして曇った窓ガラスに指先でうさぎを描いて、それが溶けるようにいなくなっていくのを見ながら「ぼんやり」しようと思います。


あっ!三月うさぎ


またね。