冬の一角獣

真城六月ブログ

何もいらない帰りたい

          何もいらない

小さい彼女は学校帰り、駅のホームで泣いていた。
私は今よりも小さく、だけど彼女より大きかった。
手をつなぎ、バスに乗った。
バスはぐんぐん走り、私の家のある方から遠く離れて行った。
小さい彼女はいつの間にか泣きやんでいた。
窓から見る夕焼けは柿の色をしていた。
信じられないくらい遠くまで走ったバスはやっと停まり、彼女のお家まで少し歩いた。
いつもこんなに遠い道のりをこの子は独りで行き来していたのかと私は彼女の赤ちゃんのようなほっぺを見ていた。
その子のお家は真っ暗で誰もいなかった。
明かりを点け、ランドセルを放り投げて二人で遊んだ。
しばらく遊ぶと、私は時間が気になった。
遠い遠いここから、家まで今度は急いで帰ろう。
そう思った。
「お母さんはいつ帰ってくるの?」と聞くと、彼女は「わかんない」と言うのだった。
帰ると言うと、また泣きだしそうになった。
玄関で「また一緒に帰ろう。また来るね」と言うと、彼女は「明日も明後日も来る?」と言うのだった。
私は困って「なにかお菓子とかいる?」と聞いた。
彼女は「何もいらない」と言った。
私はバス停に走った。
何もいらない彼女のことを時々思い出す。




          帰りたい

老いた彼女は病院で、ベッドに横たわりながら頻りに手招きした。私が彼女の口元に耳を寄せると「早く。早く帰ろう」と言うのだった。
退院した日、家に向かう車の中で彼女は繰り返し「どこに行くの?」と聞いてきた。
「お家に帰るんだよ」何度そう答えても彼女は不審そうにしていた。
家に着き、人心地付いていると彼女が言った。
「早く帰ろう」
私はびっくりして彼女の手をとった。
「どこに帰るの?」
彼女は答えなかった。
「ここはお家だよ。もうどこにも行かないよ」
何度そう言い聞かせても彼女は納得しなかった。
「帰ろう。早く帰ろう」ひどく焦ったようにそう繰り返した。
ここはあなたのお家。これはあなたの育てていたお花。これはあなたの好きだった食器棚。何年も寝ていたベッド。
それなのに、彼女はそれらに目もくれず、落ち着かない様子でいつも私に見えないものを見ていた。
「帰りたい」「帰ろう」「帰ろうよ」
彼女があんなにも帰りたがっていたのは一体どこだったろう。
あのお家ではなく、もっと前にいた場所のことだったのだろうか。
それとも、帰りたい時期、過去のことだったか。
場所か時間かだれか、なにかの存在なのか。
それらと共にあった瞬間や思いだったか。
分からなかった。
ただ、どこかへとても帰りたがっていたことだけ知っている。
帰りたい彼女のことを時々思い出す。

何もいらない彼女と帰りたい彼女はどちらもあどけないまなざしを持っていた。
二人の髪に心の中でリボンをつけてあげたいような気がする。