冬の一角獣

真城六月ブログ

常に寄るしばしばかりは泡なれば

『篁物語』を読み返しました。昔から小野篁が大好きです。
だから作り話であったとしても彼が登場する作品は嬉しく読みます。
この『篁物語』は短い作品なので古典が苦手な方も読みやすいかもしれないと思いました。

岩波書店刊、日本古典文學大系第77巻に収められている『篁物語』です。この本には他に『平中物語』と『濱松中納言物語』も収められています。楽しい三作品です。

小野篁は参議篁として百人一首にも歌をとられていますし、よく知られた人物ですが、閻魔大王であったとする伝説や、他にも穏やかでない逸話の散々ある人物で、ほとんど実在したとは思えないところも多いような人です。小野小町と親戚だったりもします。性格は直情径行であったとか。知れば知るほど面白い人物です。伝えられていることのどこまでが真実といえるのか分かったものではありませんが、人々の嘘が彩りを添えた彼には大変な魅力があり、小野篁のことばかり考えていた頃もありました。

最近何年も捨て置いた小野篁のことを思い出しながら、新たな気持ちで『篁物語』を読みました。

話は、異母妹と篁の悲恋なのですが、二人の感情や交流は歌のやりとりから汲み取ります。最初の頃の二人の戸惑いや躊躇い、気持ちの確かめ合い、嫉妬や疑いのこもった恨み節、添い遂げられない絶望と諦め、空しさや恥ずかしさ。お互いを失う段の嘆き。そういった微妙な心理や背景がすべて歌に込められていることに今更ながらやっぱり感動しました。憧れずにはいられない素敵さです。もちろん、現実は歌われたこととは比べようもないほど、どうしようもないことでいっぱいだったでしょう。情けない綻びは時々ちらちらと歌の背後に見えそうになったりしますが、そんな時が最も心打たれるものだということに気づきました。泣きながら笑う感じです。人の哀しさ、愚かしさ、愛しさは今も昔も同じですね。

以下はなかなか思うようにならず、心がうわの空である時に「いかにせん」と嘆いた篁の歌と妹の返歌です。

(篁)うちとけぬものゆへ夢を見て覺めてあかぬもの思ふころにもあるかな

(女)いを寝ずは夢にも見えじをあふことの嘆く嘆くもあかしはてしを


そして以下はついに妹が亡くなり、彼女の幻を見たような篁の歌です。

泣き流す涙の上にありしにもさらぬあはの山かへる

この歌の返しが、今回タイトルにした妹の亡霊の歌です。以下。

常に寄るしばしばかりは泡なればついに溶けなんことぞ悲しき

体を無くした彼女の歌にあるように、私たちが常にあたりまえのように接しているすべての存在との関係は泡のようなものなのだと思います。ほんの僅かの間、私たちは誰かやなにかと一緒にいられるのだと思います。哀しく恐ろしいことです。それでもうっとりするほどしあわせなことなのだという気が何故かします。
何故でしょう。

そんなことを考え思い、読んだ久々の『篁物語』は誰かにこうして話したくなるようなお話でした。

古典には私たちのことが書いてあったりします。