冬の一角獣

真城六月ブログ

決闘する人

原幸子の詩を初めて読んだのは高校の頃で『オンディーヌ』が最初でした。

何も分かっていなかったのに分かったようなつもりでいました。

吉原さんの詩には、愛やいたみや傷や罪、美や純粋といった実に扱いにくい言葉が使われています。これらの言葉は使えば使うほど本来の意味から遠ざかる質で、よくよく気をつけて使わなければすべては台無しになります。台無しになったものを読み慣れること、書き慣れることは取り返しのつかないことです。高校生の私にもそれはうっすら分かっていました。
ある種の潔癖さを大切に思うこと、潔癖でいたいと願い、潔癖であり続けることを願い、潔癖な人をこそ認めること。そういうことを大切にする人は安易な愛の讃歌をぴしゃりと退けて生きているでしょう。白々しく、安っぽいものを拒んでいるそんな人達にも息を呑ませる愛の詩を吉原さんは書きました。そういうことが彼女の詩にまつわる文章を集めた思潮社の『人形嫌い』からも読み取れます。

この本の最後には一般的な「あとがき」よりもずっと短くあっけない「NOTE」と題された彼女の言葉があります。以下はその一部です。



くそまじめ人間なので軽妙な口は叩けず、惚れっぽいのでピリリと辛いことも言えず、不勉強なので知識もせまく、我ながら駄文ばかりだと思う。それでも読んでくださった方々には、恐縮と深い感謝を捧げる。



吉原さんはご自身のことをくそまじめだと明言していますが、たぶん周りからそれを指摘されることの多さに開きなおって冗談らしくそう書いたのではないかと思います。開きなおったように見せかけながら照れ臭そうにしている吉原さんが浮かび上がってくるようです。
おかしなことですね。まじめを揶揄する人の多いこと。時にまじめさは疎ましがられること。おかしなことだと思います。ここで言う「まじめ」とは、マナーやルールを守ることや、それらを他者に強いることといった意味ではありません。自分でものを考えるという意味です。真剣に人やものや世界と向き合おうとしているという意味です。

吉原さんはご自身で仰る通り、くそまじめであったと思います。くそまじめであること、そうあり続けることで周囲を驚かせたり、疲れさせたり、傷つけたりしたのだろうと思います。それで彼女はそれを知っていて周りの人々に自分の性を申し訳なく思うこともあったようです。

くそまじめでなかったら吉原さんは吉原さんでなくなってしまうのに!

私はくそまじめな人が好きです。だから吉原さんが好きです。
吉原さんには到底及びませんが、私もよく小さな頃から「まじめすぎる」「かたすぎておかしい」「もっといい加減にならないと愛されない」等々、言われ続けてきました。自分では面倒臭がりで、だらしない、ふざけた冗談ばかりの人間だと思っていますが、周りからはまじめすぎるとしか言われず不思議です。ですが、それが周りの人たちの私への印象であることは間違いないので受け入れています。いくら「かたすぎておかしい」と言われても違う私にはなれませんし、違う私になる必要も無いことに気付きました。仕方ありません。一生おかしな私でいきます。

話を戻しまして。吉原さんの『人形嫌い』を読み、彼女の溢れんばかりの茶目っ気や遊び心、のびのびとしたユーモアやサービス精神にも私は打たれました。

やさしい人、情深く、瑞々しく新鮮で古風なくそまじめな人。吉原さんの文章からはそういう快いものを感じました。私は勝手にこの人のたしかにこの世に在ったことが嬉しいのです。
最後に『人形嫌い』から、吉原さんのくそまじめが遺憾無く発揮されていると思われる詩の朗読について書かれた『決闘』という文章の一部を以下に抜粋します。




読む側にとってもきく側にとっても、たしかに、詩とははずかしいものである。朗読反対論の多くはその点ーー自己陶酔の押しつけがましさーーを指摘している。
だが、朗読する詩人たちが誰も、自分のはずかしさを忘れ、きく人のはずかしさをも無視できるほど厚顔無恥であるわけではないと私は思う。むしろ殆どの詩人は、内心ふるえながら、こわがりながら、読んでいるのではないだろうか。
書いてしまったということが、すでにやりきれないことなのだ。読めと言われて、今更のようにてれることは許されない、と思う。口ごもりながらとつとつと読む、という逃げ方はたしかにあり、それはいちばんやさしいが、卑怯でもある。少くとも私にとっては、読むということはてれ(自意識)との闘いであり、それは全く、書くという段階で行なわれる闘いと同じなのだ。
そういう意識から、私はまるで、決闘におもむくように緊張して朗読の場にのぞむ。できるだけふてぶてしく、図々しくなるために、アルコールという薬を服用して出番を待つ。自分のことばの至らなさに目をつぶり、とにかくきいて下さる方にその至らなさを押しつけ、巻きこみ、共有してもらう以外に、決闘から生きて還るチャンスはないのだ。ヤケのヤンパチである。私は、私を訊問室でのようにきびしく照らしているライトや、じっとこっちに向けられた客席の中の一つの顔、あるいはそのうしろの虚空を、くいつくようににらみ返すことで辛うじて立っている。それは多分、書いてしまった私への、必死の挑戦でもあるのだ。

以上、吉原幸子著、思潮社刊『人形嫌い』より。