冬の一角獣

真城六月ブログ

ささくれにオレンジ

 

 

お久しぶりです。ひと月ブログの更新をしませんでした。2014年に始めてから、これまでで一番長い空白でした。もともと更新の少ないブログですが、書かずにいるのは既に自分がさびしいです。

 

 


どんな状況であれ、取り組めることはあり、思い込みや捉われで、何かを諦める癖は克服出来るはずだと、これまで凍りついていた部分を溶かすように暑い夏の中で自分なりに頭と身体を動かしてみました。どういう事かというと、身動きの取れない生活の中にあって、新しい分野の勉強と十年以上ストップしていた自分の核にあるものでの挑戦をしました。結果はまだ先ですが、取り組むことが出来たのが嬉しいです。

 

 


新たな方向へ舵を切り、すぐさまスムーズに動くことは難しく、心は怯むし、身体はすぐにバテるし、使わなかったエンジンは錆びて、再び活かすのには大きなエネルギーが必要です。それでも、情熱は無くなっていた訳では無く、霧のように消えかかった訳でも無く、大部分自分でかけた呪いのような思い込みで抑圧されて、行き場を失っていたようです。

 

 

 


誰かや何かや事情や環境や体調や。やらない理由、出来ないと自分で自分を納得させる慰めは常に無数にあり、逃げること、あるいは失敗して傷つくことを回避することは出来ます。実際に、無理なものは無理です。わたしには、この2年以上、何事につけ「それどころではない」という事情が常にあります。だけれど、それが本当に無理なのかと不意に自分に問う日がありました。本当に本当に思い込みでは無く、出来ないか。そして、大切な事を大切だからと、他を諦める言い訳にしたくないと思いました。

 

 


日常は繰り返し、際限無く続きます。本来は有限なすべてはまるで永遠であるかのような様子をするのが上手です。時々は、予想外のアクシデントも起こります。他者との感情の行き違い。絶望的な隔たりに孤独や失望は募ります。日々、そうしたものは少しずつわたしの中で重なっていき、身体は老いていきます。そういう生きることの合間合間に、沢山の叶わなかったことや、取り返しのつかないことなどが、過去から津波のように襲ってくる時もあります。そうして、それらに損なわれずにいられるように祈り、乗り越えようと闘う時も、すぐに過去になります。そうやって、今まで来ました。これからもそうしていくかと思っています。皆さんも生まれてから現在までのすべてで出来ているんですね。感じてきたすべてで人も他の生きものも出来ています。代わりはいません。同じ存在は無いです。だから一生さびしいですね。自分のさびしさが自分のものです。よろこびも痛みもたぶんそうです。それだけが持ちものです。

 

 

 

 

かなしみに特効薬は無く、人生に安泰は無く、すべてが砂のお城ですが、どうしてそれなのに生きられるかというと、愛情を感じるからです。愛情には色々あります。色々あって、ひとつのものです。愛されること、愛すること。自分で自分を愛すること。世界や自然や星や動物や人を愛することが出来るのは、一体どうしてなんでしょう。地球が好きです。この星には本や音楽があるし、自分が地球の一部だと最近、何を食べても感じるからです。それにしても愛すること。誰かにいつかやさしくされたから、そのぶん愛せるのでしょうか。生まれつき、沢山持っている人がいる?どうして注がれても注がれても足りずに、渇きが癒されない者があるのでしょう。不思議ですね。なんてかなしく面白いんでしょうか。人の世は。複雑なようで、そうでもない。拍子抜けしてしまうほど、雑に出来たところもあるというのに。本当に巨大な仕掛けのビックリ箱ですね。だけれども、もし、伝染して流行るならかなしみや怒りでは無く、笑いあうことが流行病になる箱であれば良いなと思います。

 

 

 


脱線しました。引き返し方が分からない。行きはよいよい帰りは怖い。皆さんの夏はどんな夏でしたでしょう。わたしは、モモのようなオサナゴコロノキミのような友人に話して、聞いてもらいながら道を踏み外さずに過ごすことが出来ました。皆さんは誰に話しているのでしょう。皆さんが聴く方なのかな。わたしもモモの話が聴きたいです。

 

 

 

またね。