冬のロマン主義
十二月になりました。
読み返したのは、何故か突然恋しくなったドイツロマン派アイヒェンドルフの作品です。
ドイツロマン派の作品は、大きな暖炉の前で紅く燃える炎を見つめつつ、猫脚の王子様専用みたいな椅子にゴブラン柄の何処で買ったのか不思議過ぎるガウンを羽織って座り、物思わしげにため息をつきながら、なんでそこまで過剰装飾なの?使い難くない?あっちこっちに馬や白鳥がいるね。みたいなティーセットに時折、細かく顫える指を這わせつつ読むのに似合います。
間違っても、ひよこのイラストが散りばめられたもこもこのパジャマで時々猫に体当たりをされながら、熊の笑顔が印象的に描かれたマグカップでココアを飲み飲み読むようなものではありません。
どうして読んでもロマン主義。それでもやはり、季節なら秋と冬がお似合いのように思えてならないドイツロマン派の作品です。
今回はアイヒェンドルフの『秋の妖惑』と『デュランデ城』とに美しさを感じました。
アイヒェンドルフの作品を読んでいると真昼に散策に出かけた森でだんだんと日が陰り、黄昏には一際鬱蒼とした樹々の合間を馬に乗り、この世ならぬ何かに魅入られながら彷徨う人の姿を遠くに見つけることになります。その彷徨い人はやがて小夜啼き鳥の歌にますます迷い、幽かに響く角笛の調べに導かれ、行ってはならない場所に向かいます。そうして辿り着いた先で、逢ってはならないものに出逢うことになります。
逢ってはならないもの。逢わない方が良いもの。でも、抗い難く逢いたいもの。それは魅力的な魔です。『秋の妖惑』では、そういう魔との遭遇が描かれています。以下、少し作品から引きます。
ーー人の心のなかには、不思議な、ほの暗い想念の王国があるのではないでしょうか。そこでは、水晶や紅玉など、石と化した奈落の花々が皆、不気味な愛の眼差をきらめかせていて、その間を、魔的な調べが、どこからどこへともなく吹きかようのです。現世の生の美が、夢のように、そのほのかな光をさしかけ、目にみえぬ幾多の泉が、嘆きつつ誘うがごとく、たえまなくざわめき、あなたは、はてしなく深みへとひきこまれてゆくのですーー深みへと!
アイヒェンドルフ『秋の妖惑』より。
訴えかける作中人物の話す声は、抑えきれない興奮で時折、絶え絶えになり、耳を傾けるこちらの呼吸も浅くなるようです。ほとんど息だけの声で、重大な秘密が話されそうで緊張します。『秋の妖惑』は、引き留め、引き返させてやりたい人がやはり霧の向こうへ戻ってしまい、取り残されたこちらに、果たしてなにが人のしあわせなのだろうと悩ませる作品でした。
『デュランデ城』はもう少し身近なかなしみや人の内の魔や愚かさが描かれている作品だと感じました。人の思いがうつくしく表現されている部分があり、好きな作品です。こちらも以下に少しだけ引きます。
ーー小さな庭に目をやると、彼が植えた数本の桜がもう満開の花をいっぱいにつけていた。誰のために咲くのかも知らぬ無邪気な花の美しさに、彼は胸が痛んだ。そのとき、昔の番犬が綱をひきちぎって駆けてきて、甘えながら飛びかかり、彼のまわりを狂喜してはねまわった。なつかしい忠実な友を抱くように、彼はしっかりと愛犬を抱きしめた。
アイヒェンドルフ『デュランデ城』より。
ーーこんなことを思いつつ、彼はあけはなった窓辺にもたれていた。森は爽やかにざわめきわたり、久しく忘れていた音をひびかせている。谷間では小鳥たちがうたい、山からは羊飼の喚声がひびく。それにまじって下の庭園から歌声が聞こえてきた。
暗くなったら森でねむろう
木々はやさしくざわめくし
星のマントをめぐらして
夜が私をつつんでくれる
すると小川がささやくだろう
もうねむったかい?
まだよ まだずっと
小夜啼鳥の声をきいているの
木々の梢がゆらめいて
夜どおしひびくあの歌は
誰にも知られずうたっている
私の心のあこがれだもの
そうとも、静かな夜にいく度となくーー伯爵は額をなでながら思った。ーー「誰がうたっているのだ?」 彼は荷をほどいている家来たちにたずねた。声に聞きおぼえがあるような気がしてならなかったのだ。
アイヒェンドルフ『デュランデ城』より。
アイヒェンドルフの二作品からは、狂気の切なさが感じられますが、ひょっとして、その狂気無しに人の生が十分に生きられることは無いのかもしれないとも思わせられるところがありました。極端な物語ではありますが、それら物語の中で右往左往して、苦しみ、よろこぶ登場人物たちの様子は全然私たちから遠くないようにも思いました。それは、人の心が夢見ることは国や時代に関わりなく、普遍のことだからなのかもしれません。
日本の冬にドイツの森で彷徨うのは楽しいものでした。
またね。