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冬の一角獣

真城六月ブログ

微笑の理由 【創作】

彼女は帰りたかった。

立ち去りたかった。


彼女は帰れなかった。頭痛がはじまっていた。


テーブルの向こう側にいる人の顔を見ないように視線を微妙にずらすうち、その人の顔を忘れていった。

その人の話す声は最初、耐えられないほどうるさく、そのうち遠くで鳴る鐘のようになって、やがて意識に入らなくなった。その人の話す言葉の意味は最初からなにひとつ分からなかったかもしれない。分からなくて良かった。



彼女は前方に座る人の向こうの壁や観葉植物を見ていた。


無造作に据えられた白い鉢の中で窮屈に根を張った植物の天井へ伸びる茎を見ていた。葉は生き生きと緑色をしていた。


彼女は悲しくなった。涙が目のふちに溜まった。観葉植物が悲しく見えて仕方なかった。


もしかしたらと彼女は思った。いつかもここで誰か私の知らない人が泣いたかもしれない。どうして泣いたのかしら。ここで。


彼女はそんなことを思いながら、グラスを手にした。氷は溶けて、期待した冷たさはもう感じられなかった。彼女は自分は熱があるのではないかと思った。


帰りたい。疲れている。困ったわ。



そのうちに、すべて自分が悪いのではないかという気がしだした。向かいの人が突然立ち上がり、去って行ってくれはしないかと願った。



彼女はテーブルの下で組んでいた足を解き、向かい側に座っている人に触らないように斜めに伸ばした。そっと小さなハイヒールを脱ぎ、観葉植物の葉のような足を誰にも悟られぬようにうんと伸ばして寛げようとした。


彼女ははっとした。思わず上げそうになった声を抑え、一瞬何かを探るような目つきで戸惑う仕草を見せ、それからゆっくりと微笑みながら椅子に身体を深く沈め直した。



彼女は取り戻した。



テーブルの下で彼女の足先は瞬間小さなものに触れたのだった。温かく柔らかな毛並みに彼女は触った。それが、むかし愛した白兎だと彼女は気づいた。