冬の一角獣

真城六月ブログ

異邦人 (十人目) 【創作】

シングルマザーである従姉妹が、小学生の一人娘を私に預け、旅行へ出かけたきり帰って来ない。隣県に住む友人に会いに行くと言って出て、しばらく経った。

私も一人娘も全く動揺していない。つまり従姉妹であるところの母親であるところの彼女をそういう人だと知っているからだ。こんなことは今まで何度も繰り返されてきた。私と一人娘は慣れていた。

一人娘は夏休み中で、毎日仕事に出かける私の誰もいないアパートで過ごしている。夜に帰り、私と彼女は一緒に夕食をとる。一人娘は我儘一つ言わない柔和しい子供だ。私は彼女を同居人として気に入っている。時々彼女を自分の子供かしらと思うこともある。

ある日の夕食の席でぼんやりと卵焼きを口に運ぶ彼女に尋ねた。
「宿題はしているの?」
彼女は卵焼きを飲み込んでから頷いた。
「もう終わったよ」
「そう。流石」
誉めてもちっとも嬉しくない様子の子供である。他に言いたいことも無く、箸を動かし続けていると珍しく彼女がじっと私を見つめ、もの言いたそうにしている。
「なに?」
私が促すと、彼女は箸を揃えて置き、小さな両手でテーブルの縁を掴んだ。
「兎、飼っちゃだめ?」
切羽詰まった声で切り出され、呆気にとられて私は黙った。彼女は考え考え話している様子。
「あのね、友達がどっかで買ったんだけど海外旅行に行くから捨てるって言うの」
「捨てる?預けるんじゃなくて?」
「捨てるって言ったの。みんなに自慢してたのに、もう面倒くさくなっちゃったんだよ。私、預かれるか聞いてみるって言ったんだけど」
彼女は真っ赤な顔をしていた。私は頭の中で、犬や猫は無理だけど兎なら鳴かないし大丈夫かな?と考えていた。
「預かってとは言われなかったのね」
私がそう言うと、彼女は声も出さずにぼろぼろ涙を流し始め、切れ切れに訴えた。
「いらないからあげるって」
薄い肩は震えていた。
「あなたは、その兎を好きなの?」
「私は悲しいんじゃないの!怒ってるの!」
「怒りなさい。私も怒ってるよ」
彼女は涙を拭いもせずに頷いて宣言した。
「私、前からあの兎を好きだった」
私も頷いて宣言した。
「兎を連れてきなさい」
彼女はしばらく泣いていて、私は食卓を片づけながら誇らしかった。


翌日、さっそく兎はやってきた。二人で用意したケージに入った兎は落ち着かない様子できょろきょろと辺りを見回していたけれど、やがて隅に収まって休んだ。小さな彼女はケージの傍から離れずに兎と似た形になり蹲っていた。私は「兎を飼う人の為の本」を読んだ。


兎は愛らしかった。薄茶色の毛並みは撫でると柔らかで、丸い目は少し神経質そうにいつもよく動いた。短い耳をぴんと立たせたり、後ろにぺったりと倒したりした。鼻は始終、ひくひくと動いていた。時には後ろ足のみで直立して私達を喜ばせた。

兎が来てからというもの、小さな彼女の話題はいつも兎にまつわるものだった。彼女は少しだけ変わったように見えた。今まで見え辛かった快活さがちらちらと見えるようになった。彼女の瞳は以前より大きくなり、頬は赤くなった。兎のために綺麗になった。

私達は楽しく夏の日々を過ごしていた。ある日、突然兎が死ぬまで。

お盆の明けた頃だった。朝の目覚めに彼女の声を聞いた。兎を呼ぶ声だった。叫び声にもならない息ばかりの声で、ケージの中に横たわる兎を呼んでいた。近く寄った私を見上げて彼女は言った。
「なんで?」
耳に残る声だった。


死んだ兎を可愛い箱に入れ、花を摘みに二人で出かけた。どちらからともなく手を繋ぎ、ゆっくりと夕暮れの街を抜けて野原を目指した。彼女の泣くにまかせて、私は黙っていた。どうすれば良いか分からず、私は母親ではないのだと改めて思った。思うと自分の彼女と繋がっている手が震えそうだった。どうしようもなくミスキャストな自分だった。私はただ、この子を好きなだけなのだった。とても好きなだけで、しかしそれだけでは駄目なのだ。急速に私は自信を失っていった。


野原に辿り着き、既に薄暗い中、二人でしゃがみこんで花を摘んだ。小さな彼女は声を出さずに涙を流しながら花を摘んでいた。白い花、黄色い花、薄桃の。花を摘む私の胸にいつかの記憶が蘇ってきた。

小学生の頃、私も兎を飼っていた。ほんの二週間ほどだったけれど、たしかに飼った。白黒のパンダ兎で、連れてきてすぐに連れ去られてしまったのだった。飛び去ってしまった。何故思い出さなかったかと摘んだ花を握り締めながら記憶を辿った。

前の晩まで元気な様子でいた兎は、朝には気配を失くしていて、私はたぶん事実を知って動けなくなっていた。見ることで、兎が昨日までの兎に戻ると信じているかのように死んだ兎を凝視していた。それから記憶は少し飛び、すっかり呆然となったまま自分を失い寝起きしていると、勉強机の上に手紙が置かれていたのだった。それは、母から私への初めての改まった手紙だった。先刻まで同じ部屋にいて話もしなかったのにと思いながら私は手紙を読んだ。

そう、あの手紙。あれにはなんと書かれてあったか。手の中で汗に濡れた花束を握り、私は必死に目を閉じた。思い出さなければいけない。

虫の鳴き声が止んだ。



あなたはうさちゃんをとても可愛がっていました。
いっしょうけんめいお世話をしていましたね。
うさちゃんもあなたを好きでした。
あなたにありがとうと言っていたと思います。
好きなものといっしょにいられることは短い時間でもとてもしあわせなことです。
あなたはうさちゃんをなくして悲しい。
お母さんも悲しいです。
うさちゃんをなくしたこともあなたが悲しんでいることもお母さんは悲しいです。
たくさん悲しんだら、うさちゃんにありがとうと言いましょう。
いっしょにいてくれてありがとうと言いましょうね。



「どうしたの?」
小さな手に腕を揺らされ、我に返った。彼女は泣き止んで、心配そうに私の顔を覗きこんでいた。無理に微笑む余裕も無く、私は彼女に抱きついた。縋るように抱きつくと、彼女は抱きしめてくれた。

日はとっぷりと暮れていた。


たくさんの花を兎に捧げ、私は手紙の話をした。彼女は黙って聞いてくれた。私の作った夕飯をもりもりと食べてくれた。二人でお風呂に入り、二人でお布団に潜った。

少しずつ時は柔らかく過ぎるようになり、夏休みの終わり近く、彼女の母親が帰ってきた。彼女を迎えにくる母親は、申し訳なさそうだった。彼女と私は目配せしあって笑った。

帰り際、彼女は私の耳元で内緒話をするようにこそこそと「また、すぐに来るかも」と言った。

下手なウィンクをかっこよくして見せようとまごついているうちに彼女は元気に走って行った。


部屋では無用のケージが窓から射し込む西日を受けてびかびかと光っている。