読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

冬の一角獣

真城六月ブログ

たのしい幻想飛行

埴谷雄高監修のイメージの文学誌『幻想飛行記』という本を気に入っていて時々無性に読みたくなります。

今がまたその時で何日か夢中で眠る前などに読んでいました。面白い好きな作品ばかり収められています。取り上げられている作家は以下です。



その時々で適当に頁を捲り、目に飛び込んできた言葉が鮮やかに感じられたものをゆっくりと読みます。他の本で読める作品も多いのですが、こうして色々な作家と作品の中に収められているものを読むとまた新鮮に感じられるようです。
目次にはこうあります。



重力の軛を逃れて、明るい光にみちた空を軽やかに、どこまでも飛びめぐることを願わぬ者はあるまい。この輝かしい無限の拡がりのなかには、雲だとか、凧だとか、しゃぼん玉だとか、風船だとか、蝶だとか、鳥だとか、霊だとか、飛行機だとか、小児だとかいった地上と縁を切ったコスモポリタンたちが、そこを本来の故郷としてエーテルに快く浴みし、自由に飛び交っていて、地上につなぎとめられている私たちを限りなく誘惑してやまない。私たちは暗い地の底へどこまでも墜落していく重苦しい悪夢にうなされる夜々のその涯で、はじめて、一切の拘束から逃れたこの自由な虚空に浮びただよう至福を手にいれることができるのであろう。飛翔の喜びと失墜の不安とが、光と影のように絶えまなく交錯する《夢中飛行》の魅惑的な行程を描きつくした傑作の数々をここに集大成した。



以上のように書かれたものを読み、わくわくしながら今回はこの『幻想飛行記』からいくつか引きます。たのしい!




 英国の有名な詩人の詩に『童なりけり』というがあります。それは一人の児童が夕毎に淋しい湖水の畔に立て、両手の指を組み合わして、梟の啼くまねをすると、湖水の向の山の梟がこれに返事をする、これを其童は、楽にして居ましたが遂に死にまして、静かな墓に葬られ、其霊は自然の懐に返ったという意を詠じたものであります。
 私はこの詩が嗜きで常に読んで居ましたが、六蔵の死を見て、其生涯を思うて、其白痴を思う時は、この詩よりも六蔵のことは更に意味あるように私は感じました。
 石垣の上に立って見て居ると、春の鳥は自在に飛んで居ます。其一は六蔵ではありますまいか。よし六蔵でないにせよ、六蔵は其鳥とどれだけ異って居ましたろう。

国木田独歩『春の鳥』より。





 人はしばしば、自分の姿をイメージの鏡に映して、自ら不思議に幻想することがあるものである。僕も時々自分の姿を、夢幻の空中に幻覚して見ることがある。さうしたイメージの僕の姿は、時としては鳥のやうに見え、時としては爬虫類のやうに見える。鳥のやうに見える時は、自分の気持ちが高翔して、心の翼がひろがつてゐる時であり、爬虫類のやうに見える時は、心が憂鬱に重く沈んで、地面を這ひ廻つてる時である。プラトンは詩人の前世を鳥だと言つてるが、爬虫類は何の前世だかわからない。もつとも進化論によれば、鳥類は爬虫類の分化した子孫だから、両者の間に相似の関係がないこともない。
(中略)
 一体人間の肉体といふものは、精神をすつかり反射的に表象するものらしく、僕の外貌に現はれてる形象は、たいてい僕の精神生活と一致して居る。僕は文学上に於て、多く抒情詩とエッセイとを書いて居るが、詩の方では生理生活を主として歌ひ、エッセイの方では心理生活を書いて来た。エッセイや論文を書く時、僕の心は高く高翔して飛んで居るし、『青猫』や『月に吠える』などの詩を書く時は、肉体的に憂鬱を感じて沈潜して居る。そこでつまり、僕の心理生活が鳥に現はれ、僕の生理生活が爬虫類に現はれるといふわけなのだらう。
 爬虫類が鳥に化したといふ進化論は、僕にいつも不思議な夢のやうな感じをあたへる。あの重たい腹を引きずりながら、地面をぬるぬると這ひ廻つてる宿命的な爬虫類が、地球の引力に反対して、空中へ高く飛びあがつたといふことは、生物歴史の夢が語る、最もロマンチックな哲学である。つまりこの事実は、原始からあつた生物の「意志」が、如何にしてそのイデアを現実に可能にしたかといふこと、即ち低人が如何にして超人になり得たかといふことの、ニイチェ及びショーペンハウエル的世界観を示すのである。僕一個人の場合で言へば、僕の生理的憂鬱性である爬虫類が、心理的に高く飛翔することによつて、元気の好い論文などを書かせるのである。鳥であるところの僕の姿は、実在の僕にとつて意志の映像かもわからないのだ。


萩原朔太郎『自分の映像を見て』より。






 なにごとかしくしくと優しい音をたててゐるボール紙製の円筒の中には、森の草叢から把まへてきたものが大切にしまつてあつた。
 小刀のさきでくり抜かれた小窓から片眼をつむつて覗くと、ひとすぢ光の洩れこんだ底の方には軽やかな裳をゴム毬型にふくらませたお姫様がちよこなんと坐つてゐて、永い春の日もすがらを、なにか膝の上にひろげた紗のやうな布を縫ひ暮らしてゐる、そのさまがまるで遠くのお城の内部の景色のやうに少年の瞳に映つてゐた。
 日ならず、かすかなその音も止絶えたので、また覗くと、こんどはお姫様の姿はなくて、いつの間に出来上がつたのだろう。夕顔の花をさかさに伏せたやうな恰好の蚊帳が薄暗い片ほとりに可愛らしく吊つてあるのがおぼろに見えた。では彼女のせつせと縫つてゐたのもあの蚊帳だつたのか。そんならお姫様の姿の見えないのもたぶんあの中に這入つてしまつたからだらう、と少からず安心した。
 それにしてももう眼を覚す時分だと、それからは思ひ出すたびに例の小窓から覗くのだつたが、よほど睡いとみえてなかなか姿を現さない。三日三晩はさうして睡りつづけたので、たうとう退屈して、いつとなく忘れてしまつた。
 まもなく光きらめく夏がめぐつてきた、或る日。久しぶりに思ひ出した少年があの小窓から覗いて見ると、どうだらう。なかはいつぱいまつくらで闇で、お姫様はおろか、たしかに在つた筈の蚊帳の影も形もない。さては逃げられたかと腹立ち紛れに手にとつて投げつけると……
 からんころんと音たてて転り、本箱の角に打つかつてぱくんと開いた円筒の蓋の裏側に何者かさつきから息を殺して貼り附いてゐたらしい。二枚の郵便切手のやうなものがはたはたと舞ひ上がつて、こんどは部屋の窓から庭に抜け出して、垣根のむかふに耀いて立つ雲の門をくぐつて行つてしまつた。

丸山薫『蝶物語』







私は河辺に横はる
(ふたたび私は帰つて来た)
曾ていくどもしたこのポーズを
肩にさやる雑草
昔馴染の意味深長な
と嗤ふなら
多分お前はま違つてゐる
永い不在の歳月の後に
私は再び帰つて来た
ちよつとも傷つけられも
また豊富にもされないで


悔恨にずつと遠く
ザハザハと河は流れる
私に残つた時間の本性!
孤独の正確さ
その精密な計算で
熾な陽の中に
はやも自身をほろぼし始める
朝顔の一輪を
私は見つける


かうして此処にね転ぶと
雲の去来の何とをかしい程だ
私の空をとり囲み
それぞれに天体の名前を有つて
山々の相も変らぬ戯れよ
噴泉の怠惰のやうな
翼を疾つくに私も見捨てはした
けれど少年時の
飛行の夢に
私は決して見捨てられは
しなかつたのだ

伊東静雄『河辺の歌』





水中花と言つて夏の夜店に子供達のために売る品がある。(中略)一度水中に投ずればそれは赤青紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコツプの水のなかなどに凝としづまつてゐる。都会そだちの人のなかには瓦斯燈に照しだされたあの人工の花の印象をわすれずにいるひともあるだろう。


今歳水無月のなどかくは美しき。
野端を見れば息吹のごとく
萌えいでにける釣しのぶ。
忍ぶべき昔はなくて
何をか吾の嘆きてあらむ。


六月の夜と昼のあはひに
万象のこれらは自ら光る明るさの時刻。
遂ひ逢はざりし人の面影
一茎の葵の花の前に立て。
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ、
わが水無月のなどかくはうつくしき。

伊東静雄『水中花』より。




以上で引用は終わりにします。たくさん引いてしまいまして失礼致しました。たのしかったです。まだいくらでも好きなところを引き続けたくなってしまうくらいでした。

『幻想飛行記』を読んでいて思ったのは飛ぶことというのは実際に飛んでも素晴らしいし、想いだけ翔けさせるのも愉しいし、なにかが飛ぶのを見るのも良いし、夢の中で浮かび上がるのも気分が良いし、どうあっても飛行、飛翔はいつでも好ましく自分には思えるということです。墜落の不安はいつもあるわけですが、そんなものは打ち消してしまうほど飛行には魅力があるように思えます。
自分の人生で身近な飛行といえば飛行機に乗ることでしょうか。私は飛行機とそれから空港が小さい頃から大好きです。最初からどういうわけか好きでした。なんだか空港にいると全て些細な物事をうつくしく思えて気分が良いのです。皆さんはどうですか?


最後に今回取り上げました『幻想飛行記』を読みたくなった元々の理由の種明かしをします。ただ無性に読みたくなったわけでもないのかもしれませんから。サン=テグジュペリの『夜間飛行』と『南方郵便機』新潮文庫堀口大學訳を再読し、今更ながらにこれはもう大変な本だと気づき、しばらくそのことばかり思っていました。そのことばかり思っていたら次に手にとっていたのがこの『幻想飛行記』だったわけです。そして『幻想飛行記』を読み終えた私はまた『夜間飛行』と『南方郵便機』のことを考えています。しつこいんです。

さて、またどの空港へどの滑走路へ向かいましょうか。