冬の一角獣

真城六月ブログ

異邦人(四人目)【創作】

駅前ロータリーのベンチにいつも座っているおばさんがいました。

一人きりで朝から座っているのでした。

私は朝、仕事に行くのにその人を見つけて「今日もいるな」と思い、夜に帰ってくると同じところにまたその人はいるのでした。

寄る辺ない身の上であることが見て取れました。

ある日の夜、私は思いきってその人の隣に座りました。

その人のお喋りだったこと!意外でした。私と目が合うと堰を切ったように彼女は言葉を紡ぎました。色々なことを彼女は話してくれました。昔住んでいた田舎のこと。そこで飼っていた犬のこと。ある親切な人のお店でずっと雇われていたこと。そこの店主が亡くなり、お店が閉店したこと。実家のご両親のもういないこと。今とても淋しいこと。ひとしきり話し終えると、彼女は私をじっと見てあなたは良いわね。若くて。と言うのでした。

「どうしていつもここに座っているんですか?」

「ここにいると綺麗な人達が皆、元気よく歩いて行くのが見られるからね。わたしも気分が良くなるの」

彼女がひと気の無いところにいるのは危ないので、駅前にいるのは良いかもしれないと思いました。

しばらく二人で黙って座っていました。ギターを弾きながら歌を歌う青年を見る彼女の横顔には薄く笑みが浮かんでいました。私は足をぶらぶらさせながら、夜の街と彼女の横顔を見ていました。鞄からチョコレートを取り出して二人で食べました。

「喉が渇きませんか?なにか買ってきますよ」

立ち上がろうとする私を見上げた彼女ははっとした顔をして縋りつくように腕を掴んできました。

「帰るの?」

「いえ。飲み物を買って戻ってきますよ」

「わたし、なにもいらないの」

「すぐに戻ってきますね」

「いいの。ほんとにいらないの。そんなの買ってくれるなら買う分のお金をちょうだい」

強い調子で訴えかける彼女の言葉に気圧されて私はベンチに座り直しました。彼女は私の腕を掴んだままでした。ゆっくりと視線を泳がせながら彼女は言いました。

「五百円貸してくれない?」

私は何故か少し悲しくなりましたが、思い直して聞きました。

「五百円は何に使うんですか?」

「一週間後に掃除のお給料を貰えるの。それまで、お腹が減るでしょ?」

「お仕事されているんですね」

「してるわよ。お給料が入ったら返すから一週間後にここに来てよ」

「五百円で一週間ご飯を食べられないでしょう?」

私は財布から千円札を三枚取り出して彼女に渡しました。

「こんなにいらないわよ」

「いりますよ。もし余ったら返して下さい」

彼女は立ち上がって深々と頭を下げました。私も立ち上がって笑いました。いつの間にか歌うたいの青年はいなくなり、辺りは静かでした。私も彼女と別れて帰りました。

次の日の朝、いつものベンチにおばさんの姿はありませんでした。初めて彼女のいない駅前のベンチを見るような気がしました。

その日の帰り、私はおばさんの無事を祈りながら改札を出てベンチのところに行きました。

彼女はいました。前の日と同じように一人で座っていました。私は安心して彼女の隣に座りました。

「こんばんは」

私が声をかけると彼女は僅かに身体をびくりと震わせたようでした。

「あら、どうも」

「朝、お姿を見かけませんでした。なにか食べましたか?」

「朝ね…。仕事に行ってたからね。なにも食べてないけどね」

「えっ!なにも食べていないんですか?」

「お金が無いからね」

私は当惑してしまいました。彼女は平然としていました。

「どうしてお金が無いんですか?」

私が尋ねると、彼女は巾着袋の中から髪留めやおもちゃの指輪を取り出して見せてきました。

「これね、綺麗でしょう?」

「ええ。これは?」

「わたしね、前からずっとこういうのが欲しかったの。あそこのお店にあってね」

言いながら彼女は道の向こうを指差すのでした。私の様子はきっと間抜けだったでしょう。首を傾げてぽかんとしていました。

「あなたにね、借りたお金でね、最初はパンかお弁当を買おうと思ったんだけど。これを買ってしまったの」

彼女の掌で髪留めやおもちゃの指輪はきらきらと輝いていました。私は呆然とそれを見ていました。

「綺麗でしょう?」

「そうですね」

「わたしね、こういうのが好きなの。ちょっとくらいお腹が減っていてもね。これが買いたかったの」

怒りは無く、憎しみも無く、彼女に呆れるわけでもなく私はそこに座っていました。彼女はたぶん間違えていると思いましたが私は嫌な気持ちになりませんでした。

突然、明るい声を出して私は彼女に言いました。

「もう!おばちゃんがご飯を食べるって言ったからお金を貸したのに、おばちゃんったらアクセサリーを買っちゃうんだもん」

私は財布からまた千円札を出そうとしましたが、五千円札と一万円札しかありませんでした。少し考えて、五千円札を彼女に渡しました。彼女は前日のように驚いていました。

「おばちゃん。アクセサリーはもう買ったからいらないよね。今、千円札を持っていないから五千円貸しておくよ。いつか返してね」

「じゃあ、借りているのは八千円だね。ほんとうにどうもありがとう」

「昨日の三千円はもういいですよ。そのアクセサリーはプレゼントにします」

こう言うと、彼女は急にわっと泣き出しました。私の手を力強く握ったまま彼女は泣きました。

たくさんありがとうを言われて私は帰りました。

次の日もその次の日も仕事は休みでした。おばさんのことは気がかりでしたが、体調が良くなかった私は駅に行きませんでした。

週明け、まだ少し重たい身体を引きずって朝の駅前ベンチに探した人の姿はありませんでした。掃除の仕事にでも行っているのだと特に気にせず私は出かけました。しかし、帰りの夜にもその人を見つけることは出来ませんでした。私はしばらく一人でベンチに腰掛けて待ちましたが彼女は戻りませんでした。

そしてくる日もくる日もその人がベンチに座っていることはない日が続き、最初は彼女を案じていた私も段々とこれは何処かへ行ってしまったのだと失望し、それでも良いと考え直し、そして忘れていきました。

一年ほどが経ち、ベンチの人のことなど思い出すことも少なくなっていたある日のこと。駅前で友人を待っていると肩を叩く人がいました。振り返ると彼女がいました。一年前と同じ様子でした。私は驚きのあまり何も言えず、立ち尽くしていました。彼女は何事もなかったかのように満面の笑みを浮かべていました。

「久しぶりね」

「ええ。ほんとうにお久しぶりです」

「わたしね、好きな人がいて、その人と結婚したかったんだけど、別れちゃったの」

まくし立てるように話す彼女を私はただ唖然としながら見ていました。

「ねえ、誰か良い人いない?」

私は再会を恨みました。初めて彼女を疎ましく思いました。何も言わずに視線を逸らしていると友人がやって来ました。関わらせたくなかったので、私は足早に友人の方に駆け寄りました。彼女からだいぶ離れたところまで来た時、背後から叫ぶように言葉を浴びせられました。

「へえ!良いねえ!お友達とお出かけかい!ちっともお金をくれないでねえ!」

駅前でした。人が大勢いました。皆、何事かと私と彼女を交互に見ていました。友人は驚き、私に話を促しました。出かけた先の喫茶店で一部始終を友人に話しました。馬鹿じゃないの?あんたは馬鹿だよ。ほんとうに馬鹿。と何度も友人に馬鹿と言われました。

そんな風に諭されたわけですが、私には友人についに言えなかったことが実はまだあるのでした。

それは、また似たような状況に出くわしたとしても私は同じことをするということです。私は後悔していません。また同じことをします。誰にも理解されなくても。