冬の一角獣

真城六月ブログ

異邦人 (九人目) 【創作】

気分が良い理由はパウダーだった。シャワーを浴びたら淋しくなったのでまたぽんぽんした。偉いねパウダー。

彼女は二週間前にそのパウダーを購入し、使っていなかった。暑い日が続き自然とパウダーが恋しくなっていた。遠い遠いどこかキッチンでオーブンから取り出された焼きあがったばかりのミルクビスケットの香りがするパウダーだ。遠い遠い香りを気に入って彼女はそれを身につけている。

パウダーを肌に乗せながら彼女はとりとめもなく思う。

そういえば子供の頃にママの鏡台にこんなのが置かれていたっけ。ううん。違う。あれは薔薇の香りでもっとずっと高級そうなものだった。ママはいつもあれの香りがした。とても近い香りだった。それからいつか私がついに一言も話せなかった男の子からは涼しい香りがしたけれど、あれはなんだったかしら。檸檬じゃない。海じゃない。林でもなくて朝焼け。涼しい朝焼けのパウダーなんてこの世にあるわけない。それから……。

彼女はこうしたことを思いながらぼんやりとパウダーを片付けた。つかみどころのない思いの余韻に浸りながら肩や二の腕を見下ろすとやたらに白く、つけすぎだと思った。

これから夏が終わるまで彼女はパウダーを付けるだろう。そうして無数の名前も持たない思いを反芻するだろう。

ある昼下がり、小さな日傘を閉じて彼女はカフェに入った。

席につき注文を終えて、バッグからエミリー・ディキンソンの詩集を取り出した。しかし飛行機が離陸する直前のような緊張が意識を抑えつけているようで一行も読めはしなかった。

彼女はいつか空港で号泣したことを思い出した。人前で泣いた最後の日だった。その時にあれほど激しく泣いた理由が彼女自身未だにはっきりとしない。たしか旅行帰りにひどく疲れていたとしか思い出せない。

自分のことなのについに分からないことはある。いや、分からないことだらけだ。彼女はカフェにいる他の客を見渡した。気づかれはしていないかと思ったのだ。一体なにを!

ウェイトレスがケーキとアイスティーを運んできた。彼女は火事から逃げてきた人のようにアイスティーを飲んだ。そして初めて見るのでもないガトーショコラを凝視めた。すごい眼差しだった。

茶色いガトーショコラの上には白雪のようなパウダーが降り積もっていた。

彼女は、私はなにかに囚われている。と思った。

眠る前、紺色のルームウェアを着た彼女は袖口にパウダーを振りかけてみた。白雪はさらさらと零れて床に落ちた。


夏が終わるまで彼女は遠い遠いキッチンのオーブンで焼き上げたミルクビスケットの香りがするだろう。