冬の一角獣

真城六月ブログ

異邦人 (八人目)【創作】

消え入りそうな火を抱えているんです。
昨年の十月頃には私の中で何かが砕け散っていました。確かに十月には砕けきっていたはずです。砕けたのに終わらないものを引きずっていました。砕けるまで何かを絶えず掴んでいるように思い込んでいた時間が長過ぎたからかもしれません。実際には何も掴んではいなかったのです。


彼は喋った。
午後の光を受けた住宅街を少し抜けた遊歩道で彼は独り言のように喋りながら、ゆっくりと歩いた。

私は聞いていた。


ここら辺が好きです。この道。この樹。この塀。なんでもない場所ですが、ある時にここを歩いていて突然腰を抜かしてしまいそうになりました。ここの美しさに気づいて、変になりそうでした。夜には熱を出しました。


私は聞いていた。


確かにその時、どうかしたのだけれど、どう言ったら良いか分からない。ただ、後戻りは出来ないということの意味を悟ったのだと思います。つまり時間と存在のことです。階段があるように見えました。何もない道に階段がありました。上る階段では無く下る階段で、先は深い深い地下になっている。見えません。私は平らな道の階段を下りていました。


そこまで話すと彼は黙った。


彼一人黙っても世界には何の影響も無い。なんとなくそれは口惜しいことのように思われて、私も沈黙に加担していた。すぐ傍を通り過ぎて行く車の音。行き交う人々の談笑する声。風に枝葉を揺らす樹々のざわめき。どこか間の抜けた私達の足音。などが耳を凝らさずともよく聞こえるのだった。自分の呼吸する音もやけに大げさに聞こえる。笑い出しそうになるくらい生きているものの音が。また、たくさんの色も見える。目に映り込む色の豊かさはいつも凄まじい。並べ立てることが困難で私は思考を止めようとした。時々、瞼を閉じてぼんやりするように努めた。

沈黙は続いた。

平穏で無意味な哀しく甘やかなうっとりと寛げる無言の時だった。果てしなく続けと願わずにはいられなかった。何もかもを自分で補って成り立つ世界に沈み込んでいられるものならと。一切は遠ざかって二度と戻って来ぬように。半ばふざけて、半ば本気で私は願った。

彼を見た。彼はトランプのババ抜きで、手の内にジョーカーを持っている人のように見えた。実際には持っていなくても、こいつが持っているのではと思わせる感じだ。

私は黙っていた。このまま黙り続ければ、平らな遊歩道に階段が出現したりしないだろうか。見えない階段を探しながら、それを語らずに伝えようと念じた。


やがて彼は再び喋りだした。私は失われた世界を惜しんだ。



砕けたものを、美しい場所の美しさに気づいて出した熱を、下りていった階段を、きちんと憶えてすっかり忘れたいと思います。また、あたらしく砕けるために、腰を抜かすためにそうしたいんです。私はまた階段を下り、熱を出さなければいけないでしょう。そうして、それは私の望んでいることでもあります。私は砕けたい。忘れた頃にもう一度、思いがけずに階段を見たい。いつかこうしてあなたにこんなことを話したと思ってみたいような気がします。


私は聞いていた。

落ちてゆく陽のために無理に何かを探すのは慎みたいと思った。同時にいつか無自覚に踏んでしまった誰かのコンタクトレンズのためだけにいつでも熱を出したいと思った。

消え入りそうな火は大きく燃えていくかもしれない火にも見える。


伝えずに、歩きながら遠くで吠える犬の声を満ち足りて聴いた。