冬の一角獣

真城六月ブログ

あらしの日曜日に

一日中、家で過ごしました。
しなければならないことは適当に済ませ、お茶を飲みながら猫と遊び、あとは読書していました。

今、読んでいるのは最近読み終えてすぐにまた読み返している矢川澄子『静かな終末』です。

欲しかった本なので古書市で見つけた時は嬉しかったです。

矢川澄子の本はそれまでに彼女が翻訳したものも含めて読み尽くしていました。特に好きなのは『兎とよばれた女』と『いづくへか』です。

『兎とよばれた女』を何度目かに読んでいた時、ふいに泣けてきて困りました。あまり読書で泣かないので自分でも驚きました。彼女の見せた部分に切なくなるのではなく、見せていない痛みに突然気付いたようでした。果てしなく控えめに呻く兎の声を聞いて動揺したのだと思います。

私は前に兎と暮らしていましたが、よくよく耳を澄ませば小さな声を時々だしていたものです。
私の記憶から弱々しい兎の姿とほとんど息だけのようなその声が思いだされ、矢川澄子その人が独り静かにものを書く姿と重なります。
彼女を思う時はいつも痺れを伴ううつくしく懐かしい気持ちでいます。

そして今、読んでいる『静かな終末』からもまた新しく限りない優しさと懐かしさを受け取っています。

以下に、矢川澄子『静かな終末』から好きな部分を抜粋しておきます。読む人の頁を捲る指が震えるようなものを書く時、書いていた人の指も震えていたのでしょうか…などと思いながら。


たとえさいごにきいたそのひとのやけっぱちな捨てぜりふが、会わない、もう二度と会ってやるもんかというのだったにしても、ことばなんぞはどうでもかまわぬもので、そのつたないせりふ回しにこめられた言外のひびきが、いまこうして夜のしじまにかそけくも冴えざえとしたしらべとなって、この心の琴線をかくも美しくふるわせつづけるかぎり、外目にはどうであれ兎はそのひとの母として求められていることを、自ら信ずるほかに道はないのでしたし、そう思うそばから深い歓びがこみあげてきて、今宵もまた心安らかに夢路に入れるのでした。
矢川澄子『静かな終末』より