冬の一角獣

真城六月ブログ

八月 読むこと思うこと

 

こんにちは。こんばんは。

 

 

八月です。夏です。暑いですね。台風が来たり、雷が鳴ったりします。猫の鼻はちゃんと濡れていて、八月の濡れた鼻です。

 

今回は最近の読書からメモを置いてみようと思います。

 

 

 


私のものを盗み、相手の行為に私の方がはじらって、気付かぬ様子をしていると、やがては逆に、私が盗んだのだ、と罵る人間がいる。私の心のはじらい、それが理解できないのだ。


吉行淳之介『藁婚式』より。

 

 


この一文にはっとしたとしたら、どちらの意味でか自分に問いかけてみると思いがけないものに触れることになるかもしれません。わたしの場合は、そのようなはじらいを、本来は相手のものであるはずのはじらいを感じて苦しんだ状況のいくつかを思いました。些細なことから、抜き差しならないものまで、盗まれたことに気づいた時の気まずさ、居心地の悪さを思いました。盗まれたもの。それは、時には言葉であったり、髪型であったり、服装であったり、趣味であったり、様々でした。それらは、好意の表れの真似事にしか過ぎない。そうかもしれません。

 

そういったことではなくて、わたしがかなしかったのは、わたしの思い出を自分の思い出として語る人を見たときでした。その人は、経験していない経験を我が事として語り、作品にし、わたしの個人的な感情を自らの感情として公に披露していました。それを目の当たりにした時、いささか恐怖を感じました。他者の感情を盗むことなど誰にも出来ないはずです。かなしい人があるものだと思いました。しかし、わたしは証拠を残そうともせず、目を背けました。あまりの当惑と動揺から自分の精神を守る為でしたが、今ここで語るならば、やはりその時に逃げず向き合うべきだったかもしれないとも思います。

 

他者は常に不思議な存在です。皆がそれぞれに少なからず影響を受け、与えあいながら、自分をつくり、日々新しくなりながら生きています。芸術作品、創作の分野では全く新しく、完全にオリジナルの作品はひとつも無いと思います。他の作品から着想を得たり、様々な分野や人からアイデアや時には助力を得て、たくさんのものの集合体として、変身や脱皮やを繰り返し、はじめて自分の中で作品はだんだんと形になっていくだろうと思います。年月をかけて熟成しなければ生まれなかったものがあれば、何度も壊し、新たに練り、醗酵させて成るものもあると思います。瞬発力で生まれる作品もあれば、即興で表れるものもあります。

 

 

わたしは、作品というのは、どんなものでも相互に影響しあい、それぞれがより良いだろうと思う形に仕上げていって、世の中や誰かに愛されたり、どこか誰かへ辿り着いたりすれば良いと考えています。時間が経った後は、ずっと先、いつかには作者の名前は消えて残らず、作品だけが愛され続ければ良いと思っています。短歌や唱歌、民謡や民話、説話のように作者不詳で作品だけが残れば良いのではと。今を生きる芸術家が暮らす為、創作を続ける為に、生きているうちに作品で金銭を得るのは当然です。ですが、芸術作品の生命は作者の人生が終わっても続くものです。全ての作品が無記名になって、またはその名に意味や権威やしがらみが無くなって、どれだけその作品が生き続けるか、または他の誰かによって生まれ変わらせられながら、愛され続けるか。そういうことをよく考えます。

 

 

芸術作品にあっては、真似された、盗まれたということも、おおきな視点から見ればそれほど目くじら立てることではないというのもよく分かります。

 

でも、誰か自分ではない他の人の感じたことを自分が感じたことだと発表してしまうというのは、かなり奇妙なことだと思うのです。

 

 

誰でもひとりの人というのは、その人が生まれてから今、この瞬間まで感じたことの全てで出来ているのだと思います。人でなくても鳥でも犬でもそうです。その感じたことの積み重ねは、他の存在と共有もできなければ、取り換えることも不可能です。わたしが、わたしの経験と感情を我が事として語る人を発見した時に感じたことは、怒りではなく、かなしみに近く、恥ずかしさも伴い、引用した感情を語り、作品にまでした人の精神状態を案じもするような複雑なものでした。

 

 

誰か、自分以外の他人に深い共感を寄せ、惹かれると、その他者に知らず知らず同化したい願望が湧き、いつの間にか似てしまうことはよくあります。しかし、わたしの見つけた人の様子は、わたしの個人的な体験に基づく感情を我が事として作品化しているものでした。このことで、世の中や、人の不思議さにまた深く困惑したのを憶えています。そういったことも、先に引いた吉行淳之介の一文は思い起こさせました。

 


わたしのそっくりさんは、今頃自分の人生を感じ生きているでしょうか。あなたを案じていますので、どうぞ自分の感じたことにもっと目を向けて下さい。他者の感じたことは、あなたの感じたことではないのですよ。あなたには、あなたのものがあります。わたしにはわたしの、あなたにはあなたのよろこびや痛みがありますね。あなたは、自分のよろこびをよろこび、痛みを痛がって下さい。感情は引用出来ないものです。

 

 


個人的な内容を長々と失礼致しました。気を取り直して、次はお気に入りの中国の神話を紹介します。東部の福建に住む少数民族でヤオ語系のショオ族の伝承だそうです。太陽と月の神話です。

 

 


昔、人々は昼と夜を楽しく暮らしていました。ある日、空の半分が暗くなりました。おおきな火の精である鷹が飛んできたのです。鷹は地上に降りて、水を全て飲み尽くし、西へ羽ばたいて行きました。

 

 

また別の日、空の半分が暗くなりました。おおきな水の精である竜がやって来たのです。竜は地上に降りて、火を全て吸い込んで、東へ去って行きました。

 

 

それから、人々は水と火のない暗く寒い世界で暮らしました。人々は嘆き悲しみました。その苦しい声を鳳凰の山で暮らしていた夫婦が聴きました。夫婦は自分達が水と火を取り戻そうと話し合いました。鍾郎というのが夫で、藍娘というのが妻でした。夫は火を取り戻す為に東へ、妻は水を取り戻そうと西へ向かいました。

 

 

鍾郎は、東へ行った先で、老人に出逢い、火の竜を倒す方法を教わりました。老人は金水湖へ行き、熱い金水湖の水に一日中入って体を金の体に鍛えるように言いました。鍾郎は熱湯の金水湖に浸かり、体を鍛えました。彼は焰を吹き出す火の竜の棲む場所へ辿り着きました。鍾郎は竜と闘い、鱗を剥ぎ取りました。鍾郎に剥ぎ取られた竜の鱗は、空に光る星になりました。竜は地上に火を返すことを誓いました。鍾郎は竜の背に乗って、妻のところへ戻ろうと西を目指しました。

 

 

藍娘は、西で老婆に出逢い、老婆から水の鷹の倒し方を教わりました。銀水湖へ行き、冷たい湖に一日体を浸し、銀の体に鍛えるという教えでした。彼女は冷たい水に身を浸からせて、体を白銀色に輝かせ、鍛えました。藍娘は水の鷹と闘いました。鷹の羽根を毟り取り、抜きました。抜かれた鷹の羽根は雪になりました。鷹は地上に水を返すことを誓いました。藍娘は水の鷹の翼に乗って、夫に逢うために東へ帰りました。

 


それなのに、二人は逢えませんでした。鍾郎は西で妻を探しましたが、見つかりません。藍娘も東で夫を見つけられません。そして、今度は鍾郎は東へ戻り、藍娘を探します。藍娘も西へ戻り、鍾郎を探すのでした。二人はどこまでもすれ違い、再び逢うことは出来ませんでした。

鍾郎は日神に、藍娘は月神になり、空を往き来しました。鍾郎は太陽に藍娘は月になり、日夜を照らし、渡るのでした。

 


神話というのは、ユングのいうように、世界中どこでも似たような話があるのが不思議に興味深いものです。それは、人間には共通の心理、意識が根ざしていることを感じさせます。

 


子供の頃からギリシア神話など世界の神話が好きでした。今回取り上げた神話は、口承で受け継がれたものらしいのですが、日本の民話にも通じるような懐かしさを感じさせる話で、気に入っています。先に言及し、取り上げた吉行淳之介の一文からくる思い起こしと比べると、こんな共感や共有、神秘的な関与ならば人と人との間にいくらあっても温かなのにと思い、神話を紹介しました。

 


人と人とは別々で、意識や思念は目に見えない繋がりで絡み合ってもいる。無理に近づかなくとも、真似なくても、どんなにか近い私達でしょう。そんなことを思います。それでいて、一人一人が果てしなく他と切り離されて遠いことでしょう。淋しさも、懐かしさも、ほんとうに感じられるのが人の内側でしかないならば、梯子や橋を渡って零れるほんの僅かな言葉や仕草でお互いがやっと垣間見えるのかもしれません。

 

 

星や雪が鱗や羽根だなんて、昔の人が言うことの方が本当だったら良かったかもしれないなんて思いもします。

 


ひろい宇宙の地球の地でお家つくって、お部屋に夜はお布団敷いて、時々なんだかそんな全てが切なく、可笑しくなってきます。インターネットで知った人、見た絵、読んだ文章。お手紙とお返事。不思議な生き物ですね。みんな。

 

 


またね。