冬の一角獣

真城六月ブログ

らしさ らしさ

 

 

 

水色、ピンク色、紫色、赤色、黄色、色とりどりのペンや缶バッジ。例えば、小さなノベルティなどを頂く際、お店の方は「どのお色になさいますか?」と、選ばせて下さることがあります。

 

好きでない色は無いし、どれもきれいだと思うときなど、ご迷惑かもしれないと分かっていても「どうしよう。どれでも良いです」と、こたえてしまったりします。そんなとき、お店の方はピンク色のものを「では、こちらを」と、下さることが多いです。

 

わたしはピンク色が好きなのでいつも嬉しいです。ですが、同時に何故いつもピンク色を貰えるのかということが興味深い謎であるように思えました。

 

 

この、自分がピンク色のものを人に与えられるということについて少し考えを巡らせてみました。そのうちに考えは脈絡なく脱線し、収集がつかなくなり、そのまとまりの無い考えをここに書いてみようと思いました。

 

 

ピンク色を選んで与えられる理由、推測① 女性だから。ピンク色は女性が好む色だという認識が人々に広く根付いているから。だから、お店の方はピンク色を選んだ。推測② 着ているものや、年齢、雰囲気などからピンク色を好みそうだと判断された。または、似合うだろうと判断され、お店の方は選んだ。推測③ 偶然。偶然わたしはピンク色と縁があった。推測④ ピンク色は人気があり、万人に喜ばれ、選ばれるので、この人もきっとピンク色を喜ぶと考え、お店の方は選んだ。推測⑤ ピンク色は人気が無く、いつも沢山残るので、何でも良いと言った客にはなるべくピンク色を出すことになっている。推測⑥ 推測①から⑤までとは別の計り知れない理由。

 

 

さて、どれでしょう。わたしはこのようなことを考えてばかりいます。友人はいつも少なかったです。

 

 

わたしの考えでは、上記の推測のうち、①②④が現実的に思えます。③のわけは無いし、⑤のわけもありません。だって、そうでしょう。怖いよ。で、⑥ですが、⑥の可能性は捨てきれずとも、全く思い浮かばないことは考えられないので、もう⑥のことは忘れます。⑥だったら、どうしよう。怖いよ。

 

 


推測①②④においては、そのうちの一つではなく、それぞれが重なって、わたしにピンク色をもたらしているようにも思えます。もたらされるピンク色の小さな品を見つめていると、この世の面白さに触れるようでくすぐったくなります。この世の面白さとは、人の面白さです。人の面白さとは、人の思いのことです。

 

 


ここで頭の中を不意に「らしさ」という言葉が過ぎりました。ピンク色を与えてくれた方の見たものに思い馳せました。他者のなかに知らない自分があるのでしょうか。ちらとも知らない他人のような自分が他者のなかにあり、勝手に彼や彼女にピンク色を求めているのでしょうか。ああ、どうしたら良いのでしょう。他者のなかに自分「らしさ」はあるのでしょうか。

 

 

いよいよ木の芽時らしくなってまいりました。←「らしく」を使いましたよ!「らしさ」とは一体なんでしょうか。イメージ、印象から発展して、実際からかけ離れて勝手に育っていく厄介で迷惑な、たぶん、それでもときには、便利な使い勝手の良い「らしさ」というもの。こう仮定してみます。「らしさ」とは、常に他者にあるもので、他者が無意識のうちにも自分以外の存在を認め、受け入れるために分かりやすく判断しているものだと。時々はもちろんきっと、認めない為に。受け入れないという判断に行き着く為に。それから一旦置いて、保留にする為にも。そのうちにたくさんを忘れてしまうかなしさに気づきもせずに。

 

 


自分のことで振り返るのが一番手っ取り早いでしょう。例えば、わたしは子供の頃には子供らしくないと周囲に評価されることが多く、可愛げが無い、元気が無い、と、よく言われていました。ときにはこのことだけで叱られることもありましたし、大人にはっきりと、「あなたは子供なのに子供じゃないみたいでなんだか苦手」と、言われたこともあります。子供ながらに一応、気まずく思ったのは憶えていますが、反骨精神めいた一方の心では、どうして無理に元気よく楽しげにしていなければならないのだろうと疑問に感じていました。

 

 

他者が明るい様子でいないのを気に入らない人がいる。という事実は、衝撃的でした。気に入らないというより、もっとはっきりと不快に感じる人もいるようだと徐々に気づいていきました。それは、恐ろしいことでした。ところが、またそれとは逆に、他者が幸福そうに、楽しそうにしているのが気に入らない人までもいる。という事実もあり、さらに衝撃を受けなければなりませんでした。それは、恐ろしさを通り越し、もはや意味不明の事態でした。

 

 

子供のわたしは、非常に憂鬱そうな大人や常に上機嫌な大人に自然に好感を抱いていました。彼らに変わってほしいなどとは思いもしないことでした。どちらかといえば、変わらずにいてほしいのでした。よく考えれば、変わらずにいてほしいという願望も僭越な身勝手なものではありますが。

 

 

音楽室のベートーヴェンは陰鬱で不機嫌そうで、怒っているようで、神経質極まりない表情で描かれていました。話しかけにくい感じ、近寄りがたい感じが抜きん出ていて、絵ではありますが、格好良くて好きでした。ダンス教室の先生は綺麗な若い女性で、いつも溌剌としていて、大きな声で名前を呼ぶ人でした。彼女も大好きでした。先生が疲れた顔をして、元気が無い日には余計好きでした。

 

 

このように、なんでもよく好きになるわたしでしたから、人の様子や態度が自分にとって望ましくないからという理由での不愉快な気持ちというのはよく分からないものだったかもしれません。そして、大人になったわたしは、大人になってすぐの頃も大分経った現在も、今度は逆に、大人らしくないと周囲に言われています。おお!なんてこった!どういうことでしょう。えらいこっちゃ。

 

 

落ち着くのが難しい局面は日常にありふれていますね。子供の頃は、子供らしくないと言われ、大人になってからは、大人らしくないと言われ、困っています。

 


子供らしくないませた子供。大人ぶった妙な子供。そんな風によく言われました。あろうことか、十歳くらいの頃には現在絶対に誰にも言われない言葉、色っぽい、セクシーだとまで言われていたのです。嘘みたいだと自分で思います。

 

 

三十歳を前に親戚のおばあさんと再会したときには、しみじみ「あなたは不思議ね。さっきまで小ちゃい五歳の子供みたいだったのに、急に私よりも歳上の人みたいになるのね」と、言われました。ここまで書いていて、このようなことを振り返り続けて、わたしは疲れました。

 

 

疲れたわたしは、困ることをやめにしようと考えています。要するに、求められる態度、言動に応じられないということに気づいたとき、それを必要以上に悪く、恥ずかしいことと思わないでいようと考えました。そして、言葉を越えて伝わってくるものを含んだ、あなたらしい。という言葉をもしも、何かのときにどなたかから頂くときには、有難く受け取ろうと思います。

 

 

「らしさ」とは、「決めつけ」や「思い込み」ではないかとも思います。他者を測ることなど到底出来ないはずで、出来るのはせいぜい、分かる気になれた範囲での、相手が見せてくれたほんの部分的な情報からの、多くは怠惰な推測に過ぎないでしょう。先にわたしがピンク色を頂く理由を推測したように。適当に軽く、互いに扱いあうことに慣れてしまいたくないと、どこまで踏みとどまれるか分かりませんが。

 

 


「決めつけ」や「思い込み」というのは、狭苦しくて窮屈なものです。している方は僅かな安心のために、無限の面白味、深み、味わいを手放さなければならず、ときには、自分が恥をかくよりもずっと深く他者を痛めつけているかもしれませんし、されている方も正直に誠実にいたいと思うあまり、いちいち正すとしたら、正しながらも相手を裏切っているような、騙してでもいたような全く不当な後ろめたさ、遣る瀬無さに直面しなければならないでしょう。

 

 

自分で自分の「らしさ」を決めつけ、思い込むことも同じだけおかしなことのようにも感じられます。わたしらしさ、あなたらしさ。それは、心地良いふりの上手な言葉で、本当は美辞麗句にもならない滑稽な手枷、足枷なのかもしれません。本当は、全てがもっと猛烈に面白いもののような気がするこの楽しさを、邪魔するだけだなんて「らしさ」!新しく知りたい、新しく好きになりたい、まだまだあるのでしょう。終わりは無いでしょう。思いに終わりは無いでしょう。

 

 

どうすれば良いか、はっきりとは結論に辿り着けぬまま、脱線と矛盾だらけの「らしさ」問題にわたしの中でケリをつけたいと思います。勝手に手を振ろうと思います。これでお別れじゃないことはよく、よく知っているけれど、また直面してももうまともに付き合うことは無いでしょう。わたしは、むしろ笑いたいのです。

 

 

 

願わくば、「らしさ」を押しつけられる全ての人がそれを面白がれるようになりますように。「らしさ」は押しつけるのでは無く、そっと、差し出されるに留まりますように。痛みを越えて、面白がってしまえますように。「らしさ」は、誰のためにもなっておらず、それどころか、ほとんど的はずれなものだと一笑に付される日が来ますように。「らしさ」が絶滅するとき、思いの全てが自由に行き交いますように。