冬の一角獣

真城六月ブログ

星空

 

 

年が明けて十日も経ちますと、年末の頃の感情を遠く感じだします。クリスマスソングはまだ頭の中に鳴り続いていて、お餅を食べているサンタさんと七草粥を眺める何処かの七面鳥と富士山と日の出とほっぺたツヤツヤの新成人の中振袖が華やかにゆっくりと通り過ぎて行きます。

 

 

 

2018年になりました。新しい一年がはじまっています。寒い日々です。月や星のよくひかる夜々です。もう既に何度も笑いましたか。どんな夢を見ましたか。

 

 

 


わたしは昨夜すばらしい夢を見ました。ライブハウスにいるんです。お客さんはたくさん。背の低いわたしはかつてのライブ通いの頃と変わらずにつま先で立っています。誰か分からない、けれどとてもギターのすごいボーカルが歌っていて、わたしは熱視線そのものです。存在は消滅して聴覚です。心地良さは行き止まりを失い、溢れかえっています。周りは無くなって世界はステージのみです。空間の傷口は裂けたところから、無数の手で塞がれて、満たされた皮膚の下で血はわくわくとしています。歌い手が叫ぶように「ほしぞら!」と発音し、目の覚めるようなギターソロが演奏されました。そうしましたら、わたしの目前は星空になりました。つま先立ちのまま、見開いた目で濃紺の空に光る千か億かの白い星々を見ました。星空を出現させた魔法使いのシンガーはギターでその後ずっと星空を見せ続けてくれました。そういうことなので、微笑みながら起きたとき、しあわせでした。

 

 

 


思いましたことは、あの夢の中の歌手がして見せてくれたように星空が出現するときに立ち会いたいと望んでこれまできたのかもしれないということでした。中々立ち会えないものですが、だからこそ望み、ひたすら待ちわびて、わくわくとしていられます。常にそれを探して、時々は諦めて、時々はもっと簡単なもので誤魔化そうとして、そうは出来なくて、嫌になって、疲れて、そうして結局はまだ望み続けているみたいです。なんという、強欲。執念。意地。紆余曲折経て、戻ってくるところはいつも同じです。求めているし、待っています。待っているのはつまり「ほしぞら!」です。

 


「星空!」

 

 

 

もしかしたらこの曲を聴くために生きてきたのじゃないかしら。この数行を読むために。この舞を観るために。この絵の前に立つために。この景色を知るために。この獣の背中の毛を撫でるために。そういうものはきっとみる前から、いつかそうなると決まっているみたいに誰かがそれをみつけるまで待っていてくれるのじゃないかしら。もしかしたら、それが待ってくれているから、いま生きているのかもしれません。そんなの、そんなまさか、なんて都合の良いロマンティックです。

 

 

 

 

 

2018年。平成30年。昭和93年。大正107年。皆さんが待っているものは、やって来るでしょうか。やって来ますように。皆さんを待っているもののところに皆さんが行き着きますように。それでもなお待てど来ぬものを待ち続ける愉しみも隠し持ったまま。だって、ひょっとするとついに来ぬものを待つことこそ無上のよろこびなのかもしれません。

 

 

またね。