冬の一角獣

真城六月ブログ

七夕過ぎてつれづれ

 

 

暑くなって、陽射しが痛くなりました。


いつにも増してぼんやりとしてしまう夏にまた身を浸しています。

 

 

気分は刻々移ります。狭い人間なので同じところを時を置いて巡ります。

 

このブログを始めてから来月で三年にもなります。読み返すといつも同じことを書いているように感じたりします。

 

 

感想を嬉しく頂いてきましたが、その中で自分にとって印章に残っているのが「過去のことばかり」というのと「まるでもうすぐいなくなる人のよう」というものです。両方、有り難かった感想です。

 

 

「過去のことばかり」というのも、なんでも言われて始めて気づくもので、自らの書いたものを読むと、なるほど本当にその通りだと思います。「現在」や「未来」について書くことの少ない理由は、自分がなんでも気づくのが遅く、長い時間をかけて物事を受け取る質のためではないかと思います。

 

 

余韻というものがあります。いつも実際に起こったことよりも、それが過ぎた後の余韻が自分という存在のほとんどを占めているように思います。

 

 

それで一時間は百年になります。
三分の出来事に十年の余韻があります。それで自分にとって、このいつも長引き過ぎる余韻こそがすべてになってしまうのです。

 

 

これが「過去のことばかり」になる理由です。「現在」や「未来」の広さ、予感、新鮮さ、豊かさ、しなやかさ、うつくしさに打たれても、その瞬間はショック状態にあるために書けないことが多く、追いつかないこと、取り返しのつかないことばかり増えていきます。

 

 

これからも恐らくは「過去のことばかり」になってしまうでしょう。


もう一つの方。「もうすぐいなくなる人のよう」というのを聞いたときは、最初少し驚き、その後深く落ち着きました。

 

 

すべての存在は、もうすぐいなくなるかもしれない存在です。すべての言葉は、最後の言葉になる可能性があります。いつもそのことが胸にあります。自分も他者もいつかいなくなることは同じです。その当たり前のことを忘れたとき、わたしは過ちを犯してしまいます。

 

 

だから、誰かがわたしの書いたものを読んで「もうすぐいなくなる人のよう」と感じとったということは、わたしはとりあえず最後のようにその人にものを伝えようとしたということになるのかなと思いました。ややこしいですが、最後になっても良いようにという意味です。

巧くとか、良くとかでは無く、そうは出来なくても最後のようにものを書きたいと願っています。

 

 

創作する方なら、いつかこんな作品に取り組んでみたいとか、近くても遠くてもいつかの未来に着手する予定が色々とあるものだと思います。わたしにも少ないながらあります。ですが、自分はもちろん、誰にも最後の作品がどれになるか決めることは出来ません。今、創っているものが必ず完成するかすら、いつも分かりません。

 

 

そんなことばかり考えてちゃ、身動き取れなくなってしまう!そうです。本当に。不吉なことを言うなよ!そうですね。本当に。

 

 

だからわたしも、必ずあるとは分からない明日という日に望みをかけながら、それでもやっぱり、どこかに最後を思いながら生きています。書くときには余計に最後を思いながら書いています。だから読んで下さった方から「もうすぐいなくなる人のよう」と言われたとき内心で、ああ、それなら最低限良かったと思いました。

 

 

これからも愚かに、あかるく、不気味に、さびしく「もうすぐいなくなる人のよう」にしか書けないと思います。

 

 

いつも嘘つきになってしまうかもしれないので涙ぐんでしまいそうになるあの言葉!言うのも言われるのも頼りなくて甘く苦しいです。それでも。

 

 

「またね」

 

 


七月はまだ半ば。げんきな夏をお過ごしください。

 

 

 

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