冬の一角獣

真城六月ブログ

迷信

 

 

山脈が海に沈むことはあっても、富士山はお茶碗に入らない。

 

 

 

流れに逆らうことは、身体に悪い。それでも、思念が留まりたがったり、流れに逆らったりする限り、身体には苦痛を忍んでもらう他ない。そうして来たけれど、いつまで保つかしら。それがいつまでもは通用しない予感もずっと続いている。

 

 

 

効き過ぎた冷房の中、冷めきった珈琲を舐めながら思うこと。

 

 

 

よく人に訊かれるでしょう。訊かれてきたでしょう。訊かれて困ったことがあったでしょう。

 

 

 

「なにを考えているの」

 

 

 

答えられたためしがない。自分が答えられないから、人に訊かない。いつだって答えられない。誤魔化すのも辛い。

 

 

 

たくさん、たくさん山ほど喋ってしまったら、想像するだけで熱が出る。

 

 

 

「緊張と縁遠い集中力の弛緩した王様」これこそ問題なのかもしれない。「数えきれないほど多くのありふれた王様」が繰り広げる「惨事」は絶え間なく目の前で続く。その一つ一つの「惨事」をまるで見なかったようにやり過ごす。その度に自分を大根役者と感じる。恥辱。恥辱的な「惨事」。それを見ていない演技をすることこそ。慣れることこそ。自分が王様に似ていると気付くことこそ。

 

 

ヴェイユの「この景色は醜い」ではなく、「わたしは苦しむ」だ。いつか常にそのようにあれるだろうか。そうでありたい。


明恵上人の「阿留辺幾夜宇和」だ。あるべきようにあろうとするとき、それを阻むものはなんだろう。それは、わたしの場合、「水を差すもの」だ。それから、「自由を奪うもの」。これらは常に内部に溢れかえり、外部にもある。

 


いいえ。自分の問題なのだ。他は関わりがない。

 


つらつらと意識は流れ、神経が張ったり、弛んだりする。冷房のせいで身体が冷たい。

 


思念。

 


コクトーの「定過去」にたしかあったように、わたしももう純粋な状態にはなれない。植物にはなれない。無垢な幸福を感じることは出来ない。それはもう取り返しがつかない。

 

 

敬意と配慮。

 

 

値するかしないか。

 

 

 

 

ヴァージニアの「存在の瞬間」。それだけが。それだけなのかもしれない。

 

 


自由を阻むもの、水を差すもの、それらから離れなければ。あるいは、手を放して飛び立たせる。恐らく他のもっと他のことを望んでいるのだ。代わりになってはいけない、代わりにしてはならない。

 


リルケを思うと、もっと大変だ。愛するものから自由にならなきゃいけないのだから。愛するものを自由にして。これはもうずっと大変であり続けるだろう。とてつもなく遠い。

 

 

もっと毅然としなけりゃ。戸惑いながら?躊躇いながら、毅然と?それしか出来ないんだから。

 

 

 

透きとおれ。透きとおれ。

 

 

 


大丈夫。なんといっても、今ここで流れているのは好きな曲。愛してうしなった兎と出逢ったときに流れていた音楽だから。大丈夫。