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冬の一角獣

真城六月ブログ

『昔話の深層』から

河合隼雄の『昔話の深層』(福音館書店刊)は矢川澄子訳のグリム童話が十話収められ、装丁と挿絵を鈴木康司が担当しています。面白く興味深い本です。ユングに関心がある方は河合隼雄著作を読むことも多いと思います。この本を最近読み返し、やはりたのしかったので今回はこの本からいくつか部分を引いてみることにしました。

 


ーー昔話は自然現象を説明するための、低次元の物理学なのではなく、自然現象を体験したとき人間の心の中に生じる働きをも不可分のものとして、それらを心の奥深く基礎づけるために、そのような話が生まれてきたと考えるのである。

(第一章 昔話と心の構造 より)

 


ーー現代人はあまりにも合理性や、道徳性などで防衛されているので、おそれおののくことがほとんど無くなってしまった。すべてのことは「わかって」いるし、わからないことや恐ろしいことは、うまく言いかえることによって防衛する。
(第二章 グレートマザー(太母)トルーデさん より)

 

 


ーー母はやさしいと単純に信じこもうとする人に対して、トルーデさんの物語は、女の、母の恐ろしさを伝えて衝撃を与える。しかし、実のところ、それは各人が自分の心の深層に存在するグレートマザーを発見する事としての戦慄でなければならない。もちろん、女性の方が自分のグレートマザー性に気づきやすいであろう。しかし、男性も少し注意深くあれば、自分の心の深層にうごめいているグレートマザーのはたらきを意識することができるであろう。われわれは自分の能力も省みず、何事であれ自分で
「抱きこみ」、「かかえこもう」として、それが不可能と解った途端に、棄て去ろうとし、死に追いやろうとしなかったであろうか。
(第二章 グレートマザー(太母)トルーデさん より)

 

 


ーー昔話には素晴らしい「時」の強調がみられる。(中略)しかし、われわれの人生においても、このような「時」は存在する。われわれは時計によって計測し得る時間としてのクロノスと、時計の針に関係なく、心のなかで成就される時としてのカイロスとを区別しなければならない。時計にこだわる人は、重大なカイロスを見失ってしまう。グリム童話では、王子をはじめて見た姫は初対面にもかかわらず、「しんからなつかしそうに王子さまをみつめた」と書かれている。これがペローの話では、もっと劇的となり、目を覚ました姫は、「あなたでしたの?王子さま、ずいぶんお待ちしましたわ」となつかしそうに声をかける。初対面の人に確信をもって、「あなたでしたの」と言うためには、百年を待つ間に成熟した知恵と、カイロスを必要とする。このように考えると、百年という表現も、計測し得るものとしてのクロノスとしての百年ではなく、カイロスの到るのを待つ内的な長さの表現であることが明らかであろう。
(第六章 思春期 いばら姫 より)

 

 

 

 

ーーもっとも劣等なものが最高のものにつながるという逆説は、昔話のお得意である。これは、体制の改変を行いうるものは、その体制の目から見るかぎり愚かものに見えるということを示している。あるいは、これを個人のこととして見れば、自分にとって不得意の、劣等な機能が、自分の人格を変えてゆくためにもっとも役立つことを示しているとも考えられる。
(第八章 父と息子 黄金の鳥 より)

 

 

 


ーーわれわれが行為しているとき、「もう一人の私」はそれを常に注視しているのである。 このように考えると、人間にとって外界のすべての事象はすべて「なぞ」であるとも言うことができる。人間をめぐる万物はそれぞれ、「なんぞ?」と問いかけてくる。この「なぞ」をわれわれは解き明かさねばならず、その答えの集積こそが人間の文化というものであると考えられる。このような深い意味を持つので、神話や昔話になぞの話が多く生じるのも当然のことである。
(第九章 男性の心の中の女性 なぞ より)

 

 

 

ーー人間が感情にまかせて無茶な行動をするときでも、そこには無意識の願いが案外こめられているものだ。そして、無意識はその本人さえ気づかないもっと深い意味をもって作用している。
(第十章 女性の心の中の男性 つぐみの髯の王さま より)

 

 


ーー自らの意志による決定権を放棄することも、昔話によく生じる主題である。人間の心における自我と自己の相互作用についてはすでに述べてきた。自我は人間の意識の中心であり、その主体として存在している。そのような独立した自我を確立するために西洋の文化は多大のエネルギーを費してきた。しかし、そのような自我が心の全体のなかであまりにも分離した存在となり、意識の優位性を強調しはじめると、それは根の切れた植物のような状態になってしまう。科学によって武装された自我意識が自然との関係を断つことによって生じる害を、われわれは現在、如実に味わわされている。自我による決定を超えるものは、しばしば偶然という形をとって現われる。
(第十一章 自己実現の過程 三枚の鳥の羽 より)

 

 

 

ーーつまり、両者の葛藤にもまれることにより、そこには他人の真似ることのできないその人の個性ができあがってゆくのである。あれかこれかという断定は既存の何らかの価値判断に従うかぎり決められるものである。しかし、第三の道はその人個人の個性を必要とし、既存のものに頼らない創造的行為となる。(中略)ある主人公は危険に敢えて挑戦して成功し、ある者はそれを避けることによって事無きを得た。あるいは一見不幸に見える出来事が、後ではかえって幸福の種となることさえあった。このように一般化を許さぬことにこそ人生の特徴があり、それ故にこそ個性化と呼ぶべきなのであろう。ここで注目すべきことは、あくまでそれは個性化の過程として把えられており、自己実現の成就という考え方をしないことである。昔話はすべて結末をもち、しばしば主人公の願いは成就されるのであるが、それらはあくまで自己実現の一コマとしての意味を持つものであって、ひとつの段階の成就の次にはまた次の段階が待っているのである。
(第十一章 自己実現の過程 三枚の鳥の羽 より)

 

 


読み返しながら、意識と無意識についてや、アニマとアニムスなどについて強い関心を持っていた頃のことを思い出しました。今回も懐かしく、面白く感じながらページをめくりました。一人の男性と一人の女性が口論しているとき、男性の内のアニマと女性の内のアニムスとそれぞれの内に棲む影とグレートマザーとを加えたら、本当は何人もで戦っているのだと考えると可笑しかったです。なんという賑やかなわたしたちでしょうか。そんなことも思い浮かべながらたのしい読書ができました。


グリム童話や昔話、ユング河合隼雄矢川澄子も好きなのでうれしい本です。

 

 


それでは孤独でも賑やかな賑やかさん、またね。