冬の一角獣

真城六月ブログ

かつて読み返す人がいた

まだまだ暑い日が続きそうな九月のはじめです。これからもうしばらくは雨と台風とが繰り返されそうです。

 

冬が好きなので朝晩に初秋の風を感じたり、空の雲が薄く軽そうにのびたり、葡萄や梨が口に入ったりすると少しうれしくなります。秋は気づけば深まっているものですから、今年もある日突然、枯葉を踏むかもしれないと思っています。

 

 

日々の気分によって、いろいろな本を読み返して過ごす時間に本気で淹れるミルクティーが必要な季節を待ちわびています。

 

 

最近、ウォルト・ホイットマンの『草の葉』を読み返していました。昔から不思議と秋に読みたくなるような気がします。夏に疲れた神経と身体に大きくて広く、明るい重さと安らぎを感じとれるからかもしれません。ヒメネスの『プラテーロとわたし』と同じように何度も自分を回復させてくれました。今回は、このウォルト・ホイットマンの『草の葉』から最も好きな作品を引きます。随分と前から何度も読んでいますが、毎回泣きそうになります。

 

 

岩波文庫ホイットマン作、酒本雅之訳『草の葉』(中)に収められている『かつて出かける子供がいた』という作品です。

 


では、皆さんの九月が無事に愉しい日々でありますように。またね。

 

 

 

 

 

『かつて出かける子供がいた』


かつて出かける子供がいた、
そして何かが目にとまると、そのものに彼はなった、
そしてその日一日、あるいは一日のうちのある時間、それとも何年もつづけざまに、
あるいはいくたびとなくめぐりくる歳月のあいだ、そのものは彼の一部になっていた。


早咲きのライラックがこの子供の一部になり、
草が、白と赤とのアサガオが、白と赤とのクローバー、ヒタキの歌が、
三月生まれの子ヒツジや、うっすらとピンクがかったひと腹のブタの子、そして子馬や子牛たちが、
それから農家の庭で、あるいは池のほとりの泥濘のそばで、騒騒しく躁ぐ雛たちが、
それからその下の池のなかで実に巧みに動きを停める魚たち、驚くほどに美しい池の水が、
それから優美な平たい花を頭にのせた水草が、一つ残らず彼の一部になってくれた。


四月と五月の野に顔を出す新芽たちが子供の一部となり、
越冬した穀粒や淡く黄ばんだトウモロコシの新芽、庭園の根菜類が、
花に覆われたリンゴの木、そのあと木に実る果実が、キイチゴが、道ばたのごくありふれた雑草が、
おそく目ざめて立ちいでた居酒屋の離れから千鳥足で家路を辿る酔いどれの老人、
学校へ向かう途上の女教師が、
通りかかる仲良しの少年たち、いさかい絶えぬ少年たちが、
身ぎれいで頰のあたりがういういしい少女たち、素足のままの黒人の少年と少女が、
そしてどこであれ彼の赴く都会や田舎のすべての変化が。


彼自身の両親、彼の父親になった男と、彼を胎に宿して産んでくれた女、
彼ら二人がそのあともこの子におのれ自身を分け与え、
それからあとも毎日与えて、彼らが彼の一部になった。


家のなかで静かに夕餉の食卓に皿を並べる母親、
頭巾と部屋着は清潔で、言葉づかいも穏やかで、そばを通るとからだと衣類からすこやかな香りがこぼれる母親、
力持ちでうぬぼれ屋、男っぽくて下品で怒りんぼうで無法な父親
殴打、早口で声高な喋りかた、けちな取引き、ずるい駆け引き、
一家の慣習、言葉づかい、人づきあい、家具、憧れに高鳴る胸、
有無を言わさぬ愛情、ほんものの感触、結局ほんものではないと分かったらという不安、
昼間に胸をよぎる疑念、夜になると浮かぶ疑惑、どうかなどうしてかなと思いは尽きず、
こんなふうに見えてはいるが本当にこうか、それともみんな線香花火で、実は小さな染みなのか、
街なかで押し合いへし合い群れ集う男や女、彼らがもしも花火や染みでないとしたら、いったい彼らは何ものか、
街並みそのものや家々の正面、陳列窓に並んだ商品、
乗物、馬車をひく家畜、厚板を敷いた船着き場、連絡船で行き交うおびただしい人びと、
日没どきに遠景に見える高台の村、その手前を流れる川、
さまざまな影、落日にかかる暈と靄、二マイル離れた白や茶色の屋根と破風に降りそそぐ光、
近いあたりを眠たげに潮流をくだるスクーナー船、ゆっくりと船尾にひかれる小舟、
せわしなく崩れる波、あっというまに砕け散り、激しく打ちつける波頭、
層を成す色あざやかな雲、かなたへとただひとすじ長く伸びるクリ色の砂州、その砂州が身動きもせずに身を横たえる清らかな広がり、
地平線の果て、飛んでいるカモメ、塩性の沼地と渚の泥の快い香り、
これらのものが、かつて毎日出かけて行き、今でも出かけ、今後も毎日出かけるはずのあの子供の一部になった。