冬の一角獣

真城六月ブログ

モノローグ 【創作】

その人は急に屈み込んで、わたしの足の甲に触った。

 

口元には柔らかな笑みを湛えながら瞳は泣き出しそうに彷徨っていた。


わたしは理由の分からない動揺に囚われて、すっかり温順しくなった。思い返せばいつもわたしの小さな手足を彼女は笑っていたのだった。だが、そのときはいつもとは全く違った。なにかに抗わずにいられないような気持ちからわたしの吐き出した言葉はつまらなかった。

 

「なにしてるの?」

 

声は掠れているのに高く出て、言わなければ良かったと意味も発音も恥ずかしくなった。

 

彼女はわたしの足を手でつまみ上げながら「この足」と、こちらの顔も見ずに呟いた。普段から小声なのにもっと息だけだった。

 

「この足」

 

彼女は言いながらわたしの足を放した。

 

 

 


暗い夜だった。雨上がりの路上は黒く輝き、空気には眠っている人を不意に起こしてしまうような匂いが混じっていた。

 

 

 

 

 

わたしはある人のためにいつでもどこへでも行くことになっている。自分で決めている。少しでもその人がわたしの来ることを望むならすぐさま行くことになっている。ただ、そのときは訪れないことをわたしは知っている。わたしはその人のところへは二度と行けない。

 

 

 

 

 

ずっと以前にその人はわたしの友人だった。何日も熱を出し、寝ていたその人が無理に起きて約束した場所へ出かけ、わたしを待っていた。わたしはその約束が当然果たされないものとその人の様子を聞いて思っていたので、別の友人と全然離れた場所へ出かけていた。連絡手段を持っていなかった頃。

 

 

 

日が暮れて、わたしたちは最寄り駅に帰り着いていた。改札から出て来る無数の人々がつくる波をガラス越しにカフェから見ていた。一日歩き回って疲れた身体をぐったりと椅子に凭せて満足感を味わっていた。そうしていると、人々の波の中に、本当はその日に会うはずだった人の母親を見つけた。わたしは手を振り、お母さんが気づかないので、店から出て追いかけ、声をかけた。

 

お母さんは仕事の帰りだった。

 

「今日は楽しかった?」

 

そう尋ねられ、背後にいる遠くの友人に気づいていたのかと思った。わたしは肯いて尋ね返した。

 

「彼女は大丈夫ですか?」

 

お母さんはぽかんとしていた。

 

「熱は下がりましたか?」

 

重ねて尋ねるわたしに目を大きくしてお母さんは言った。

 

「だって今日、あなたと一緒だったんでしょ?あの子はそう言って、出かけたのよ。あなたが楽しみにしているからって」

 

 


それから、お母さんとわたしたちは大急ぎで家に帰り、彼女がまだ戻らないことを知った。友人とお母さんと別れて、わたしは約束した待ち合わせ場所へ向かった。駅まで走っている間、走ることに全く向かない靴が憎かった。そもそも一日歩いていた間じゅうずっと足は痛んだ。新しい靴だった。こんなに走るのが遅い人間は自分以外にこの世に無いと思いながら、駅まで走り、遅延し、永遠にやって来ないのかと、呪いに呪った電車に乗り込んだ。

 

 

冷や汗と脂汗と寒気と熱感と。気も狂いそうに電車から電車へ乗り継いだ。

 

 

階段では転がり落ちるように、最後の駅を滑り出て、目的の場所へ走った。

 

 


その人と待ち合わせた約束の場所は、最後の駅からかなり離れたところだった。映画館やゲームセンターや雑多な商店の並ぶ街の広場だった。そこにたどり着き、わたしはさっき蘇ったばかりのゾンビのようにふらつきながら広場を探した。昼間とは違い、街も広場も恐ろしかった。恐ろしい広場のどこにも彼女はいなかった。

 

 

身の置き場に困りながら、足を止めずに広場の周りを歩いていると、その人が映画館の出口近くのドアに凭れかかり、立っているのを見つけた。大声で呼びかけたくても疲れ果てていて、なんとか彼女を目指して近寄った。

 

 


尋ね人の前に立った。彼女は腕組みをしてぼんやりとしていたけれど、わたしを見て少し笑った。わたしは頭を下げて謝った。それから、泣き出してしまった。なんで泣くの?と、尋ねる彼女に、新しい靴で遠くまで行って、戻って来て、お母さんに会って、ここまで走ってきたら足が痛いと、わたしは激しく泣きながら訴えた。彼女は熱のある人独特の瞳をして、やっと立っているようだった。わたしは馬鹿のように足が痛いと繰り返して泣いた。

 

 

 

 

 


その人は急に屈み込んで、わたしの足の甲に触った。

 

 

 

 

 

わたしはある人のためにいつでもどこへでも行くことになっている。自分で決めている。少しでもその人がわたしの来ることを望むならすぐさま行くことになっている。ただ、そのときは訪れないことをわたしは知っている。わたしはその人のところへは二度と行けない。