読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

冬の一角獣

真城六月ブログ

ばいばい八月ばいばい

時々、本を読んでいて世界中の鐘を打ち鳴らして周りたくなったり、声にならない叫びを上げて布団に潜り込んだり、急に窓を開けたり、勢いよくカーテンを閉めたりしたくなることがあります。


そうなりたくて読んでいるのか、期せずして不意にそうなるのかはっきりしませんが、ひっそりとしたたのしみをもらえる時はしあわせです。


外からは見えない怪我を負った自分を感じることもあります。誰に見られても私の身体のどこからも血は流れていない。見るだけでは誰がどこをどう傷めているか分からないものです。見えない怪我は労られないので、自分だけのものにしておけます。また、見える見えないとは別に見せないということもあります。見せている部分と見せない部分があります。見せているところだけ見せているわけです。誰かの負った見えない怪我を私も労われない。ただ、薄っすらと何かを感じることが時折出来るような気がするだけです。そしてたぶん時には見えない怪我を癒す見えない手のようなものにも出会うことがあります。


何を書いているのか自分で分からなくなってきました。えっと…。あ、本を読むことについてでした。最近も新しくない本をどんどん再読しています。それで、ひっそりとたのしくさせてくれた何冊かのいくつかを引いて紹介したいと思います。以下に始まるよ。






子供はごく単純なものしか読めないことは確かだが、恐ろしいほど徹底的に読む。また、読んでいるものについて、倦むことなく、何度も何度も繰り返し考え抜く。一編の短いお伽噺が、読んでから一カ月経っても彼の心にこびりついて離れない。子供のかわいらしい想像力は、ことごとくそのお伽噺に費やされる。
(中略)
さて、私のいう専門的読書家とは、知識や学問や経験があるにもかかわらず、子供がお伽噺を読むのと同じように、書物を読むのである。彼は本の持つすべての問題をあらゆる関連から、またあらゆる角度から考察するために、子供が頭を働かせるように細心の注意を払うのである。子供の読書法が拙いという考え方は、正しくない。悪い読書習慣はずっと年をとってから身につくもので、決して生まれつきのものではない。自然体でありながら同時に学究的であるというのが、子供の読書法である。しかし、こういう読書法には、われわれが成長するにつれて失いがちなもの、すなわち忍耐という貴重な資質が要求される。忍耐がなければ、いかなることも、読書でさえもなしとげることはできない。
(中略)
良書の鑑定方法は、一度しか読みたくないか、それとも何度も読みたいかということによって決まる。本当にすぐれた書物は、はじめて読んだときよりも二度目の方がよりいっそう好きになるものである。読みかえすたびに、その本の中に新しい意味と新しい美を見出すのである。
(中略)
「新刊の書物が出たと聞いたら、いつでも古典を読みたまえ」。


ちくま文庫『さまよえる魂のうた』小泉八雲コレクションより。






 そう、取り憑かれているのだ。ロンドンの陰鬱なセピアの冬にあっても、赤道直下のコバルトの輝きの中にあってもーー雪の道をたどっていても、熱帯の黒く熱い砂の上を歩いていても。あるいは、北国の松の暗い木陰で休んでいようと、ひょろりとした長い椰子の葉蔭で一息ついていようと。いつ、どこにいても、やさしくぼんやりした存在は、わたしのそばを離れない。この幽霊は恐ろしくはない。やさしい顔、思いやりに満ちた声は、蜜蜂の羽音のようにかすかでありながらも、なぜか懐かしく、耳元に届いてくる。
 しかし、どこかもどかしい。こうして、絶えずそばにまとわりつかれていると、突然、はっと呼び覚まされるように、ある感覚が心に蘇る。それも、自分のものではないような……。それは、夢想家が遺伝的な記憶と呼んだものだろうか。前世の記憶なのだろうか……。虚しく自分に問いかける、「誰の声だ。誰の顔だ」と。その顔つきは若くもないし、老いてもいない。朦朧とした謎に包まれ、透明で色つやも失せている。
 ーーおそらく、ひげをたくわえているのかどうかも、分からないであろう。しかし、その表情は穏やかで、ゆったりとほほ笑んでいる。夢で出会った見知らぬ友人のほほ笑みのように、わたしの愚かなふるまいも、夢うつつの愚行さえも、どこまでも許してくれる。
 永遠にかき消そうとしないかぎり、その存在はこちらの意志にあえて逆らいはしない。気まぐれを快く受け入れ、移り気にも、天使のように辛抱強くつきあってくれる。けっして批判がましいことは言わず、いやな顔ひとつせず、うんざりした様子もみせない。だからといって、無視することはできない。なぜなら、それは奇妙な力を持っていて、わたしの心をかき乱し、震えおののかせるからだ。古ぼけた甘い悔恨のように、とうに葬ったはずなのに、いつまでもわたしにうなずいて、けっして消え去ることはない……。
(中略)
 ある日、あるいはある晩、思いもよらぬ時についにわかる。目に見えない指にそっと触れられたかのように、柔らかなぞくっとする衝撃とともに、わかる時がくる。ーーその顔は誰の顔でもなく、たくさんの懐かしい顔が重なりあった顔だということが。ーー思い出によって重ね合わされ、愛着によって混ぜ合わされて、ひとつの幽霊のような存在になったのだということが。
 それは、限りなくいとおしく、まぼろしのように美しい追憶の幻像。その声は誰の声でもない。たくさんの声が溶け合って、この世のものではないひとつの声、ひとつの音色になったのだ。遥か時の彼方から聞こえてくる、かぼそいがこの上なく甘い音色に……。


ちくま文庫『さまよえる魂のうた』小泉八雲コレクションより。







わたしは知っている、きちんと筆箱に並んだ鉛筆の
どうにもならない悲しみを、便箋や文鎮の嘆きを、
マニラ紙の紙挟みやゴム糊のあらゆる惨めさを、
塵ひとつない公共の場所や、
寂しい応接室、洗面所、配電盤のわびしさを、
洗面器と水差し、
コピー印刷器、紙クリップ、句読点の儀式、
生命や事物の果てしない複製の拭いがたい哀感を。
そしてわたしは見た、公共施設の壁の塵が、
小麦粉よりも細かく、生命をもち、珪砂よりも危険に、ほとんど人目にも触れず、退屈な長い午後のふるいにかけられて、
爪や細い眉毛にうっすらと膜を落とし、色の薄い髪や
ありふれた複製の灰色の顔に上塗りをかけるのを。


『嘆き』シオドア・レトキー、岩波文庫『アメリカ名詩選』から。






 ウォルト・ホイットマン、今夜のぼくはどんなにあなたを思っていることだろう。ぼくは頭痛と自意識とをかかえ、満月を眺めながら、横町の並木通りを歩いてきたのだ。
 空腹による疲れと、イメージを物色したいのとで、ぼくはあなたの詩の列挙法を夢見ながら、フルーツのネオンまばゆいスーパーマーケットに入っていった。
 何という桃、何という濃淡の間だろう!家族全員が真夜中のショッピングに繰り出している!通路は夫たちで一杯だ!妻たちはアボカドの、赤ん坊はトマトのなかにいる!ーーそしてガルシア・ロルカ、あなたは西瓜のそばで、何をしていたのか。

 ぼくは見かけた、ウォルト・ホイットマンーー子どももいない寂しい年寄りの漁り屋のあなたが、冷蔵ケースの肉をあちこち突っつきながら、店員たちに色目を使っているのを。
 ぼくには聞こえた、店員のひとりひとりにあなたが訊ねているのがーーポークチョップを殺したのは誰か。バナナの代金は。君はぼくの天使かい。
 あなたの後をつけて、ぼくはきらきら光る缶詰の山から山を、あてもなくうろついた。想像のなかで、店の防犯係に後をつけられながら。
 ひろい通路を大股に、ぼくらは一緒に歩いていった。孤独な空想のなかで、アーティチョークを味わったり、凍った珍味のあれこれを求めたりしながら、決してレジは通らずに。

 ぼくらはどこへ行くのか、ウォルト・ホイットマン。あと一時間で店が閉まる。今夜、あなたの鬚は、どちらを指しているのだろうか。
 (ぼくはあなたの本にさわり、スーパーでのふたりの大冒険旅行を夢に見て、馬鹿みたいな気分になる。)
 ぼくらは夜どおし寂しい通りを歩きまわるのか。木々が陰に陰を添え、家々の灯は消えて、二人は寂しい思いをすることだろう。
 ぼくらは失われた愛の国アメリカを夢見ながら、家々の私道に停められた青い車を通りすぎて、しんとした粗末なわが家に向かうのか。
 ああ、愛する父よ、灰色ひげの寂しい年寄りの勇気の師よ。三途の川の渡し守が棹をとどめ、あなたが濛々たる岸辺に降り立って、舟が黒い忘却の川水を彼方に消えていくのを眺めたとき、あなたにはどんなアメリカがあったのだろうか。


カリフォルニアのスーパーマーケット』アレン・ギンズバーグ岩波文庫『アメリカ名詩選』から。







 かくて義実、主従三名、なほも程ある伏姫の、墳墓をさして登り給へば、三月に隣る峯上の桜、ここもかしこも開初て、花香寄する春の風、吹くとはなしに霞こめし、谷の柴鶺鴒、珍らしき、人来と鳴くや、我もまた、経こそ読まめ墓参り、路の小草も目にぞつく、げに託生の蓮華草、導き給へ仏の座、心つくしも幾春を、今は杉菜と薹に立つ、色美しき草も木も、つひに悉皆成仏の、功徳を徐に念じつつ、山また山を向上れば、奇岩突立して、造物天然の妙工を見はし、嶮辺はるかに直下せば、白雲聳起りて、谷神窅然と玄牝の門を開けり。されば流水に零る桃花は、武陵の仙境遠きにあらず。偃松にかかる藤葛は、天台の石橋危きに似たり。げに眼に観、耳に聴くもの、皆ことごとく浮世の塵を、洗ひ流せる霊場佳境、むかし見つるに弥増たる。






 

それにしても、話される言葉しか知らなかった世界を出て、書かれた言葉を扱う世界に這入る、そこに起った上代人の言語生活上の異変は、大変なものだったであろう。これは、考えて行けば、切りのない問題であろうが、ともかく、頭にだけは入れて置かないと、訓読の話が続けられない。言ってみるなら、実際に話し相手が居なければ、尋常な言語経験など考えてもみられなかった人が、話し相手なしに話す事を求められるとは、異変に違いないので、これに堪える為には、話し相手を仮想して、これと話し合っている積りになるより他に道はあるまい。読書に習熟するとは、耳を使わずに話を聞く事であり、文字を書くとは、声を出さずに語る事である。それなら、文字の扱いに慣れるのは、黙して自問自答が出来るという道を、開いて行く事だと言えよう。
 言語がなかったら、誰も考える事も出来まいが、読み書きにより文字の扱いに通じるようにならなければ、考えの正確は期し得まい。動き易く、消え易い、個人個人の生活感情にあまり密着し過ぎた音声言語を、無声の文字で固定し、整理し、保管するという事が行われなければ、概念的思考の発達は望まれまい。


新潮文庫小林秀雄本居宣長 (上)』より。







ーー境遇などというものはまことに取るに足らぬもので、性格がすべてです。たとい外部の物や人とは縁が絶てても、自己と縁を絶つことはできません、またいかに境涯を変えても、つまりは振りほどこうと望んでいた苦悩をその境涯の一つ一つに移し持ってゆくだけで、場所を変えても性格を矯めるわけではないのですから、得るところはただ悔恨に良心の呵責を加え、苦しみに過失を加えたことにしかならないのです。

岩波文庫、コンスタン『アドルフ』より。







私は一人の小さな女の子を思ひ出す、
それはレキサンブルグ公園の五月の或る日の事だつた。
私は一人で坐つてた。私はパイプを吹かしてた。
すると女の子はじつと私を見つめてた。
大きなマロニエの木影には桃色の花がふつてゐた、
女の子は音なしく遊びながらじつと私を見つめてた。
女の子は私が言葉をかけてくれればいいがと思つてゐたのだ。
かの女は私が幸福でない事を感じたのだ、


然し小さなかの女は私に言葉をかけることは出来なかつたのだ。
榛の実のやうに円い目を持つた女の児よ、やさしい心よ、
お前ばかりが私の苦悩を察してくれたのだ、
彼方をお向き、どうして今のお前に了解することが出来ませう?
彼方へ行つてお遊びなさい、姉さんが待つてゐます。
ああ誰も治すことも慰める事も出来ぬのだ。
小さな女の子よ、何時かお前にそれが分かる日が来るでせう。
その日、遠いやうで近いその日、お前も今日の私のやうに、
レキサンブルグ公園へお前の悲みを考へる為めに来るでせう。


『レキサンブルグ公園で』ギイ・シヤルル・クロス、岩波文庫『月下の一群』より。








以上でひっそりとたのしかったものたちの紹介を終わります。まだまだたくさん引きたいのですが、きりが無いのでまた今度に致します。今は好きな松浦理英子の『犬身』を読み返しています。わんわん!


今日は八月の最後の日です。九月はどんなことがあるでしょう。また怪我をするのでしょうか。見せたり見せなかったりする怪我をして治る頃にはちょっと痒いでしょうか。それでもやっぱりお願いしておきます。無事にたのしく過ごせますように。それではみなさま、また今度。ばいばい。またね。