冬の一角獣

真城六月ブログ

一緒に狐になること

 

 

 

色鉛筆を買わなかった。昔好きだったミュージシャンが表紙を飾る雑誌を買わなかった。ドライアプリコットを買わなかった。飲み続けていたサプリメントをやめた。

 

 

 

右を向いて眠らなくなった。電話が鳴ってもゆっくりとして驚かなくなった。いつまでも表皮を掠め続ける本を投げ出すようになった。

 

 

 

ゴミを捨てられるのをやめた。後ろめたく思わずに避けられるようになった。不快を露わにする事を躊躇わなくなった。自分の痛みを自分で引き受けられなくても、誰かを痛めつけることで自分の傷が癒える訳ではないのですよと胸の中で相手に告げて立ち去ることが出来るようになった。

 

 

 

好意を表現することはますます増えた。美や快と向き合う時に感じる気後れや罪悪感を薄れさせていきたいと意識するようになった。

 

 

 

苦しみを苦しむだけで十分だから。既にやめたことは沢山。やめたことをやめなかった頃、どうして過ごしていたか分からない。痛みを撒き散らす人に撒き散らされないようになると、自分がどんな生きものであったか思い出してゆく。もとに戻っていくようで、はじめが何処か分からないくらい、はじめはもう遠く、見えないのだけれど、それでも少しずつはじめに返っていくようで可笑しい。よろこびをよろこぶこと。

 

 

 

愚かな過ちが生きた日々の核にあるのだとしても、その過ちによって歪んだ自分をやはり見限れない。誰にも負えないし、負わせる訳にはいかないから、自分でなんとかしたい。手を差しのべてくれた人の力を借りて。どんなに重たいものを携えながら、その人は振り返り、足を止めてくれたか。一番重たいものを携えた人が、しゃがみ込んで見守ってくれた。誰かに、やめたことの方にこそ、あなたがあるのではと指摘されたとしても揺らがない。わたしは笑いたい。重たいものを携えた人と笑わなければいけない。

 

 

 

 


アドバイスをされて、常に違和感があった。ためになったと感じた事は無い。何故なら、そのアドバイスはわたしのためにされたものではなかったから。波に飲まれそうに溺れかけていると、彼らは声をかけてくるのだった。「落ちぬよう気をつけるべきだった」「どんな気分?次からはそうならないと良いね」「そうなると思った」「助けを呼ぶんだね」「向こう岸に上がるロープがあるかもね」「学びなさい」「反省しろ」彼らは、そうして自らが愚か者でない証明をしようとする。自らは高みに立ち、溺れかけた者を眺め、戯れに足元の砂利を蹴り落としてくる。そして、驚くべきことに彼らのような人は珍しくない。ごくありふれた存在なのだ。彼らは、決して恥じない。彼らは、決して省みないし、ひたすら相手に恥じろと示唆する。アドバイスをしたことで相手に感謝されて当然だと考えている。そして、感謝や尊敬が分かりやすい形で返らないと、彼らは激昂する。あるいは、身勝手な期待を裏切られたことから一方的に憎しみを抱いたり、まるで被害を被った者であるかのように傷ついた素振りをする。さて、彼らの立っているところは実際、安全な陸地なのだろうか。果たして本当に彼らは高みにいるつもりなのか。何故に高みにいることを強調せずにはおれないのか。同情は出来ないものの、そこにかなしい真実を見るように思う。

 

 


誰にでもそうする必要は勿論ないし、そんな事を簡単に出来るはずもないけれど、溺れる人を救おうとする人はまず何も考えずに海へ飛び込むものだ。同じ地平へ身を投げ出すものだ。昔、こんなことを考えた。狐になってしまった人がいたとして、その人を狐からもとへ戻せる人がもしもいるとするなら、きっと、それは自らも狐になる人だろうと。そのことを思い返し、確信を深める。

 

 

 

わたしに手を差しのべてくれた人はわたしよりも他の誰よりも重たさを携えていたけれど、わたしが狐だったとき、一緒に狐になってくれた。その人は意識していないかもしれないけれど、わたしには分かった。その人は一度も狐のわたしに「早くヒトに戻りなよ」と高みから言ってくることが無かった。気づけば、その人も狐になっていて、一緒に原っぱで途方に暮れていた。あたたかかった。

 

 

 

 


彼らにわたしがアドバイスされ続けた理由は、わたしが彼らの言葉を真に受けすぎていたからだろう。彼らは真に受けなくなったわたしにアドバイスしなくなり、他に真に受けてくれる人を探すだろう。そのことで胸が痛む。求めてもいないのに与えられるアドバイスを真に受けてしまうかもしれない人に、どうか高みから的はずれな助言や指摘をしてくる相手に堪え、自らを責めずにいられるように、一緒に原っぱで途方に暮れてくれるあたたかい狐と出逢えるようにと願う。この先、わたしも誰か大切な人が狐になったら、迷わず狐になる。もしもあなたに大切な人がいて、その人が狐になったときは、その時はどうか一緒に狐になってね。