冬の一角獣

真城六月ブログ

魔法

 

 

 

動物園のショーを観た日。客はまばらで空は曇り、あなたは健康で、あなたも健康で、もう一人も健康で、わたしも健康だった。

 

 

動物園へ行けば気が滅入ることを知りながら、繰り返し行くのだった。そこへ行けばわたしが嬉しいのではないかと望みをかける人のため、やはりどこかまだ見ることの足りていない自分の欲のため。恐れながら行くのだった。

 

 

動物達はうつくしかった。少しもうつくしくないところがなかった。一頭一頭、一羽一羽わたしは確かめて歩いた。冬だったかもしれない。一頭一頭、一羽一羽見詰めるごとに苦しさは募った。混乱していった。かなしみをみるのは疲れた。かなしみをみるのは見い出す自分がかなしいからだろう。

 

 

 

ショーが始まるというので、サーカス風に仕立てられたステージの前に設けられた簡易な客席に座った。忘れられる。少しは薄れさせられる。より観たくないものを観ることで苦しさを紛らわせようとしたかもしれない。あなたや、あなたや、あなたは、自然にはしゃいでいた。それぞれの胸に起こる快をわたしにすっかり与えようとして、笑っていた。すべて受け取れただろうか。

 

 

舞台袖からピエロが出て来た。オリーブの首飾りが流れた。赤い大きな鼻をして、ピンクのサロペットを履いたピエロはパントマイムを披露し、ハンカチや花や帽子を使った手品を披露した。予想以上に巧みだった。まばらな客席から拍手が起きた。わたしたち以外からも歓声が上がっていた。ピエロの隣には、喋らない彼の代わりに進行役を務める男性もいた。ピエロは盛り上がった客席を見渡し、こちらで視線を留め、大袈裟な身振りで手招きした。進行役が「お客様からお一人、手伝って欲しいとピエロがお願いしてまあす」と、エコーの効いたマイクで訴えた。素知らぬふりをしていれば、他の客へ頼むだろうと思っていると、進行役が一層声を張り上げた。「そこの、青いコートのお嬢さん、あなたに手伝ってほしいとピエロは言っていまあす。どうぞステージへ!」凍りつくわたしを他所に、呑気な他の客は拍手をするし、あなたやあなたやあなたは、「はやく!はやく!呼んでるんだから」などと急かすし、ピエロは舞台上からずっと手招きしているし、進行役は「どうぞこちらへ!どうぞどうぞお」だし、選りに選って何故わたしがと、全存在を蒼褪めさせながら、ほとんど涙ぐみながら、よろけながら、それでもぎりぎり人情家としてわたしは舞台に上がった。人の世はかくも辛いものです。

 

 


頭を真っ白にしたまま、ピエロの隣に立ったわたしに無責任な観客から拍手が起こっていた。ピエロはわたしを抱きしめたり、頭を撫でたり、可笑しな仕草をしたりしていたように思うが、それどころではなかったわたしは真顔で棒立ちしていた。進行役が何を言っているかも頭に入らず、立っていると、ピエロが大きなボールをサロペットのポケットからいくつも取り出し、ジャグリングをし始めた。それだけで見事なもので、客の反応も中々だった。やっと意識が回復したわたしも自在に操られ、宙を舞うボールを眺めた。すごいなあ。で、わたしは何故ここに立っているんでしょうか。と思った矢先、ぴたりと動きを止めたピエロはわたしの手首を取り、手のひらを開かせた。何事か。この無礼者。と、怒る余裕も出て来て、わたしは手を引っ込めようとした。ピエロは離さない。化粧でそうなのだから当たり前だが、ふざけた表情をしている。必死でピエロの手を振り解こうとしていると、進行役の男が「お嬢さあん、ピエロを手伝ってあげて下さあい。今から、ピエロがそのボールをあなたの手のひらに置きまあす。そうしたら、手をぎゅうっと握って下さあい。ピエロが魔法をかけまあす」と、エコーかかりまくりのマイクで言った。

 

 

 

そういうことか。と、納得し、手のひらを開くと、ピエロの呼吸は少し荒かった。よくよく間近に見れば、化粧した真っ白な顔は玉の汗を滴らせていた。過去にこれほど扱いにくい馬鹿な客はいなかったろうと、わたしは急にすまなく思った。ピエロが後悔していることや、上手くいかなければ誰かに叱られるかもしれないことなどを思った。やっと開いたわたしの手のひらに大きなボールが一つ握らされた。ボールはスポンジのように柔らかく、握りやすかった。握ったわたしの手を放し、ピエロは少し離れて念を送るような仕草をした。進行役が「皆さあん、ご覧になった通り、お嬢さんの手にボールが一つ入っていまあす。今から、ピエロが魔法をかけまあす。どうなるか見ていて下さあい。お嬢さんは、もっと強く、手を握って下さあい」と、声を張り上げた。どうなるか全く分からなかった。ピエロは離れてしまっていたし、手には一つのボールの感触の他、何も感じられなかった。ピエロは大きく腕を振り、わたしの握った手に魔法をかけていた。何も起こらなかったら、わたしのせいかなと焦り、汗をかいているピエロの為に何かが起こりますように!と、強く念じた。

 

 

 

 

動きを止めたピエロが、手を開けと、仕草で指示した。進行役が「さあ、手を開いて見せて下さあい!」と、怒鳴った。恐る恐る、自分が叱られる寸前に諦めて俯く子供のようにわたしは手を開いた。信じられなかった。開いた手から溢れるように、ボールは三つも出て来た。落下しかけたボールをピエロが素早く拾い上げた。客席からは拍手喝采。歓声が上がり、わたしは間抜けに「なんで?どうやったの?」と、ピエロに訊いた。進行役は観客に更に拍手を促していた。ピエロは客席にお辞儀した。つられて、わたしもお辞儀し、舞台を降りた。

 

 


席に戻ると、あなたやあなたやあなたは「あれ、どうやったの?」と、質問した。「わかんない」と、わたしは答えた。

 

 


あなたやあなたやあなたや他の誰かに言えるとしたら、あのピエロがほんものだったということ。わたしは一つのボールを三つに増やして手から出したことがあるってこと。それが、あのうつくしくかなしい動物園で起きたってこと。

 

 

 


日々の営みの流れの中、なんでもできるような気がする時がある。何もできないけれど、なんでもできるような気がする。いとしいあたたかみに疲れた生きものだけがその力に火をくべ、生きる限り燃やしている。