冬の一角獣

真城六月ブログ

総天然色の夢と日々

 


よく夢をみます。ほぼ毎日みた夢を覚えたまま起きることができます。振り返り、なるべく何も付け加えないように補わずに思いながら珈琲を淹れます。

 

 

色のはっきりした夢です。音や匂いや肌触りやすべてある夢です。それなので、目が覚めてしばらくは本当に夢をみて覚めたのか判然としないこともあります。いま、夢の中で見たり聞いたりしていたことを実際に体験していたのではないかと疑うのです。

 

 

二倍の日々を生きているように思うことがあります。夢と起きてからと。目覚めて普段の日常を生活するわけですが、さっきまでは海外の温泉に行っていましたし、昔に飼っていた小鳥が鳴いていました。それはなんだかとてもラッキーなことのように思えます。

 

 

良くない夢をみることもありますが、それでも日常に水を差されたとは思いません。あちらではそうだったということです。こちらはこちらの日々があります。

 

 

 

そしてまた、夢がメッセージをくれることもあります。目覚めてからの自分に関連することを時に曖昧に、時に具体的に伝えていたのだと知ることがあります。特に意味深い事ではなくても妙に絡まる不思議な夢と現実に驚いたことは何度もありました。

 

 

教会のミサに参加している夢をみた次の日、それほど親しくはない知人の訃報がありました。その人がキリスト教徒であったことは後に知りました。

 

 

家族が泊まりで旅行に出かけていた晩には、家族が亀と遊んでいる夢をみました。帰った家族にその夢の話をすると、家族は泊まった宿先で実際に亀と遊んだということでした。

 

 

 

他にも数々ありますが、いちいち書くのもたまりません。

 

 

そのように夢には楽しみを与えてくれる他にもっと計れない不思議なもの親しいものを感じます。少しだけ畏れながら、それでも面白がりながら暮らしています。

 

 

 


天然色の夢ということについて考えていましたら、日常における自分自身がこれまでよくよく他者から天然ボケと言われてきたことにも行きあたりました。馬鹿げたことですが、これについても少し。

 

 

自分で自分のことを天然ボケと言うことには大変な寒々しさがありますが、それを認めざるを得ないこれまでを過ごしてきました。

 

 


タクシーを降りるときには運転手さんに「ごちそうさまでした!」と言い、ピザ屋に注文の電話をし、お名前は?と問われれば、フルネームを答え、作家のサイン会に行けば、サインして頂いた本を忘れてさっさと帰ろうとし、たった今、自分でスマートフォンを貸した友人が目の前で通話しているのに、バッグをひっくり返して立ち上がり、「電話が無い!」と叫んだり、商店で支払いを済ませた後、お釣りも無いのにレジの前に立ったままでいたり、帰りに最後に買えば良い重たい油や瓶に入った飲み物を最初に買って、どこへ行くにも持ち歩き、疲れ果てたりしています。

 

 

この前は、そっぽを向いた猫を抱いているときに、猫と一緒に向いてと言われ、訳が分からなくなり、猫と一緒にそっぽを向いて立っていたら大笑いされました。猫と一緒にこちらを向いてという意味のようでした。

 

 


この世は難しいことばかりです。恥ずかしいことは多いですが、周りの人が笑っていれば天然ボケも無益ではないと思うようにしています。もう諦めるしかないようなんです。しまいには自分も自分が可笑しくて笑っています。

 

 

 

 

いつもうわの空です。たしか小学校の通知表の備考欄にも先生からそう書かれていました。

 

 

 

 


皆さんは治っちゃったの?

 

 

 

 

またね。